1 目覚め

 空に煌めく二つの太陽。身を焦がす暑さを覚える、初夏だった。
 海の一族として。リィル・クラッドとして。生を受けて九年。
 私の信じていた世界は反転した。
 心が砂のように崩れても。
 正義と悪の狭間に揺れたとしても。
 目の前にあるものだけが、現実だった。

 小さな泡がぶつかって、弾ける。
 透き通る海の中、オレンジと白の縞模様の稚魚が、私の鼻先をかすめて泳いで行った。
 むずっと鼻がすれる。くしゃみが飛び出そうになるのをググッと眉間に力を入れて堪えては、ヒラヒラと尾ひれを揺らす魚を見送り、水中でくるりと我が家を振り返った。
 海底から地上に向けて、巻貝のように捻れながらも高くそびえ立っているお城。その前に、すらりと長い首を持つメイドがひとり。赤い髪が艶かしい、首長族だ。
 彼女はにこりと微笑むと、私に向かって恭しく頭を下げた。両足に付けられた足枷が、足元にある貝殻のライトに反射していた。七色に、光沢を放ちながら輝く。キラキラしてて、宝石みたい。
「リィル様、落ちた物を拾ってはいけませんよ。食べてもだめです。また、お腹を壊しますから」
「拾わないっ」
「ふふ。リィル様なら泳いですぐでしょうが……お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「うんっ、いってきます! 帰って来たらケーキ、用意してくださいまし」
 大きく何度も手を振って、グンっと勢いをつけて水を蹴った。
 何度訪れても飽きたらない、海中から空高く伸びる、巨大な古びた塔に向かって。
 大輪の花を象った海草が、海の中を照らす。太陽の光を映し出すその花は、昼は光を。夜は闇を連れてきた。
 海底には、小人族、耳長族、獣人族、指長族、様々な種族が歩いていた。時おり雑談する声が聞こえる。今日は人が多い。でも、誰もが時間を気にすることなく、柔らかな波に背中を押されるように、ゆったりと進んでいた。
 この海にはたくさんの種族がいるけれど、その中でも、海の一族だけが訪れることを許される、『海の塔』。
 するりと塔へと続く海流に乗って、そのまま一直線。海と塔を繋ぐ海底口から顔を出す。
「ぷはっ」
 塔の見張りをしていた二人の兵士が、やる気のない半開きの目を驚きに変えて、サッと敬礼した。
「リィル様!? またいらっしゃったのですか」
「うんっ、ご苦労さま」
「いらっしゃる時は連絡をくださいと、あれほど……」
「そうは言っても、つまらないことを頭に留めておくのって、空でダンスを踊るよりも難しいと思うんですの」
 べーっと舌を出して、差し出されていた手を無視して、床に両手をつく。
 海から上がると、体を湿らせていた水滴が波のように引いていった。
「リィル様、よく飽きもせず来ますねぇ。俺たち、なーんにもない塔の見張りとか、暇で暇で。何かこう、わっと心弾む本でもあったらいいんすけど。リィル様、何かいい本ありません?」
「ばっか、相手は海の一族だぞ。世界の王! 態度をわきまえろ! 首飛ぶぞ」
「げっ、リィル様、今のはナシで! 取り消し! あと、他の海の一族の方にはナイショで!」
「だから言葉遣いっ!」
 慌てる見張りの兵たちに、「うふふ」と微笑んだだけで、その場を通り過ぎる。
 聞かなかったことにしてあげよう。特別だぞ。本なら今度、貸してあげよう。わっと叫び出したくなるような、ドキドキワクワクホラー物を。特別だぞ。

 自分のダークブロンドの髪に付けられていた、ヒレ型の髪飾りを手に取りつつ、塔の中央にある魔法陣の上へと向かう。魔法陣の真ん中に立ち、髪飾りを魔法陣にかざすと、仄白い光が放たれていく。
 それは次第に強くなっていき、目が開けられないほどの光が溢れ出す。目を閉じるのと同時に、かすかに体が宙に浮ぶような浮遊感。
 次に目を開けた時には、澄み渡る青空が広がっていた。
 雲に触れそうなほど高い、『海の塔』、最上階。

 風が腰まである長い髪をさらっていき、海とは違う、土の匂いが鼻の奥をくすぐる。石造りの塀に近づき、背伸びをして豆粒のような地上を見下ろした。
 花が咲いている。何の花だろう。緑と青と茶色の、自然が混ざり合った色彩のパーティーは、見てるだけで胸が踊る。建物の屋根の赤が鮮やかで、小さなそれ自体も、花みたいだ。
 実際に足をつけたことはない、地上。
「いい匂い……きれい……お腹すいたなあ」
 今日はいつもよりも水面が光っている気がする。光が、波打つ度に弾けて、小さな虹をかける。いくつものキラキラした光の魔法が、やさしく目の奥を焼いていった。
 うっとりする美しさを満喫して、ふと空を見上げた。そして、手のひらを打つ。
「今の時間、太陽二つ見えるんだ」
 空に浮かぶ二つの太陽が、丁度、重なろうとしていた。その間を、大きなトカゲのような影が通り過ぎた。

 ――『ねえ、知ってる?』

 ふいに。どこか遠くで、声が聞こえた。
 とても聞き覚えのあるような、ないような……。一体どこで聞いたのか。馴染みのある女の声だった。

 ――『ドリバには、太陽が二つあるんだよ! ほらほら、見て! すごくないっ?!』

 ドクンッ!

 一度、大きく鼓動が跳ねた。
 地上に打ち上げられた魚みたいに、バクバクと暴れ回る心臓。見たことのない、でも見覚えのある映像が、頭の中を駆け巡った。
「うっ……なに、これ」
 頭が痛い。傷一つないガラスに、ハンマーが打ち付けられるみたいに、少しずつ、少しずつ、ヒビが入っていく。

 ぼやけた映像の中、あどけない少年が、迷惑そうに『私』を見上げた。
 ――『太陽が二つ? なんで』
 ――『さあ。まあ、漫画だし、そういう物なんじゃない?』
 ――『だってさ、この漫画、ドラゴンとか出てくるんだよ!』

 ……ドラゴン?

 照りつけるような日差しが陰った。ゆっくりと、顔を上げる。巨大な影は、バサリと大きく羽ばたき、つむじ風を巻き上げるようにして、空を優雅に飛んでいく。
 何度も見た。
 この塔に来れば、何度だって見ることが出来た。二つの雄々しい羽。力強く羽ばたき、長いしっぽが宙を切り裂き、空を翔る。
「……っ、はっ、嘘だ……」
 息が苦しい。心臓が、痛い。
 苦しい、苦しい、苦しい。
 こめかみを伝った冷や汗が、ポタリと石の床の上に落ちて、弾けた。
 信じない、信じない、信じられない。

 ――『姉ちゃんさあ、あんまりミーハーになりすぎんなよ』
 ――『なにそれ。いいじゃん、好きなんだから!』
 ――『好きって言ったって、現実じゃない。たかが、漫画だろ?』

 ひゅっと息を飲んだ。そのまま、呼吸が止まる。世界から、色が消えていく。時間も、音も、何もかもが動きを止めた。

 ま、んが?
 あどけなさの残る少年は、弟だ。『私』の。今の映像を、私は、知っている。

 塔の上を旋回していたドラゴンが、はるか上空に向かって飛び立っていった。ジリジリと肌を焼く熱が、私をゆっくりと蝕んでいく。

 だって。そんな。ここが、漫画だったなら。

 私は……。私は。
 主人公に倒される、悪役じゃないか。

 大好きな漫画があった。
 『ドリームバード』と呼ばれたその漫画は、世界あまたの人々を魅了した、少年漫画だった。
 世界のほとんどが海で覆われ、大陸が一つしか存在しない世界。海の往来が禁止され、破った者は犯罪者と呼ばれる。
 漫画の主人公たちは、見えない海の向こう側を夢見て、空を旅する『渡り鳥』となる――。
 それが、『ドリームバード』のあらすじだ。
 そして少年漫画には、『敵』が存在する。
 主人公の前に立ち塞がり、バトルをし、そして主人公は必ずや、勝利を収めるのだ。

「これ、は、記憶? ……夢? そうだ、夢だ。そうに違いない。だって、だって、そんなはずない。悪役なんて……。みんな、幸せに……」
 ……幸せ?
 ふいに、さっき別れたメイドを思い出す。七色に輝く足枷。
 記憶の中の、漫画の海の一族は、奴隷を持っていた。一度海に囚われた者は、再び陽の光を見ることはない。
 横暴な独裁者として、世界の頂点に君臨する種族、それが、海の一族。今の、私だ。
 手足がすうっと冷たくなっていくのを感じた。

 信じていた物に亀裂が入って、派手な音を立てて砕け散った。真っ暗な暗闇に、取り残されてしまったみたいに、寒い。空には照りつける太陽が二つもあるというのに。
「……悪役? そんな……私は、幸せ……」
 幸せだと、思っていた。
 海の中の生活。日常。そこに住む人々。
 笑っていた……はず。いいや、それは、私が盲目に見ていた幻想だったのだろうか? 泡沫のように、掴んだら消えてしまう、幻。

 確かめなくては。
 ここが、本当に、漫画の……ドリームバードの世界なのか。
 漫画と、同じなのか。

 石の塀を登り、そのまま飛び降りた。
 びゅんびゅんと風を切って落下していく。水面に叩きつけられる前に、ヒレ型の髪飾りをぎゅっと握って、呪文を唱える。
「《アマサーク・エデッセ》!」
 海面が揺らめいた。
 体が打ち付けられる前に、海が手を伸ばすようにして、優しく私を包み込んで、そのまま海に引き込む。
 一刻も早く、帰らなくては!
 大きく水を蹴った。

「お父上様!」
 自宅の一室。父上の執務室を、ノックもなく荒々しく開け放つ。
 自分の父親のことを、今まであまり疑問に思わなかったけれど、顔も体も脂肪でできているような、ぼっちゃりした体躯は、まさに豪遊しまくっている悪役そのままだ。なんなら鼻の下のちょび髭も、典型的な悪役に拍車をかけている。つぶらな瞳だけは、少しかわいいけども。
 嫌な汗が吹き出た。
「おお、リィル。ど、どうした? そんなに慌てて」
「一大事なんですの。お父上様。とっっても!」
 鼻息荒く足を踏み出そうとして、たくさん書類の積まれた机の上に、釘付けになる。あんぐりと、口が開いた。
「リィル……そんな顔も、父上はかわいいと思うけれど、口は閉じたほうがかわいいと思う。目も、海のようにキラキラした、いつものリィルのほうがいいと思っ……」
「お父上様!」
 声を張り上げると、父上は椅子から少しだけ飛び上がって、私を宥めるように、わたわたと分厚い手を動かした。
「リィル、父上はそんなつもりじゃっ、リィルは、いつもかわいい! 世界一だ! 父上にとっては!」
「そんなこと、どうでもいいんですのっ! それよりっ、それっ」
「それ……? あ、ああ。渡り鳥たちの追加手配のことかな?」
「わ、渡り、鳥……」
 机の上に置かれた、貝殻型の映写機。立体ホログラム映像を空中に映し出すそれは、連絡や観賞用に使われる。
 今は、見たことのない……、いや。何度も見た、一人の青年を映し出していた。
風碧かざみどり……ルイス……」
 『私』の、一番好きだった、キャラの名前だ。
 風碧という二つ名を持ち、主人公の憧れの人として登場した、イケメンキャラ。
 私は食い入るように、その映像を見つめた。
 サラサラの黄金の髪。瞳は空のように青く、戦っているからなのか、細められた瞳には残忍な色が浮かんでいた。右手に持った剣を振るい、敵を薙ぎ払う。髪が、なびく。前髪に隠された、額に輝く、碧の石が、静かに煌めいた。
「まったく、最近また数が増えた。簡単に法を破る犯罪者共が。こいつは……人間か。死んでてもよし、と」
 父上は、映し出されているルイスを不愉快そうに見やって、机の上の書類に何かを書き込むと、パッと映像を切り替えた。
「おおっ、これは珍しい、半巨人か? ふむ、生存のみ、と」
 くるくると切り替わっていく映像を、放心したまま見つめた。
 私の愛した漫画、『ドリームバード』。
 その本には、いくつもの謎があった。
 その謎の一つ、石版と力。
 少年漫画よろしく、謎の石版を読み解いたものには、不思議の力が宿るのだ。主人公たちは、その力を使って戦っていく。
 そして、力を使える者の証として、体のどこかに『石』が浮かび上がる。

 ルイスは、その『石』を持っていた。

 額に輝く、碧の石を……。

「そ、んな……そんなことって……」
「リィル? どうしたんだい? 顔が真っ青だ」
「あ……」
 まだ。まだ、決まったわけじゃ、ない。確かめないと。
 例えそれが、悪あがきだったとしても。
「お父上様、私、お願いがあるんですの」
「おおっ、そうかそうか! なんでも言いなさい」
「私、家庭教師の先生を、変えて欲しくて……」
 今の家庭教師の先生も、決して嫌なわけではない。やたらと博識なおじいちゃん先生だ。よく話は脱線するが、なかなか面白い。
 でも、私は確かめなくてはならない。
 ここが、本当に、漫画と同じなのか。
 否定する材料は、一つもないのか。
 絶望の中に希望はあるのか。
 ぐっと、顔を上げて父上を見据えた。
「十字……ディヴァイン・ワールドに所属する、ハナ・クライアントを、連れてきてくださいまし」

 漫画に、存在した人物。
 だけれども、今の私は、会ったことも、その名を聞いたこともない人物。
 果たして、今この瞬間にも、命の鼓動を鳴らしているのだろうか?

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