2 少年漫画『ドリームバード』

 大好きな漫画があった。

 『ドリームバード』と呼ばれたその漫画は、世界あまたの人々を魅了した、少年漫画だった。

 世界は海が支配し、大陸はひとつしか存在しない。
 海の往来は聖典で禁止されていて、破った者は犯罪者と呼ばれる。
 それでも。
 漫画の主人公たちは、見えない海の向こう側を夢見て、空を旅する『渡り鳥』となる──。

 それが、『ドリームバード』のあらすじだ。
 そして少年漫画には、『敵』が存在する。
 主人公の前に立ち塞がり、バトルをし、そして主人公は必ずや、勝利を収めるのだ。

「これ、は、記憶? ……夢? そうだ、夢だ。そうに違いない。だって、だって、そんなはずない。悪役なんて……。みんな、幸せに……」

 ……幸せ?

 ふいに、さっき別れた首長族のメイドを思い出す。七色に輝く、足枷。
 そう。足枷だ。
 逃げることができないよう、拘束するための。

 記憶の中の、漫画の海の一族は、奴隷を持っていた。足を拘束し、海の中へと連れていく。
 一度海に囚われた者は、再び陽の光を見ることはない。
 横暴な独裁者として、世界の頂点に君臨する種族、それが、海の一族。

 今の、私だ。

 手足がすうっと冷たくなっていくのを感じた。

 信じていたものに亀裂が入って、派手な音を立てて砕け散った。真っ暗な暗闇に、取り残されてしまったみたいに、寒い。空には照りつける太陽がふたつもあるというのに。

「悪役? そんな……私は、幸せ……」

 幸せだと、思っていた。
 海の中の生活。日常。そこに住む人々。
 笑っていた……はず。いいや、それは、私が盲目に見ていた幻想だったのだろうか? 泡沫のように、つかんだら消えてしまう、幻。

 確かめなくては。
 ここが、本当に、漫画の……ドリームバードの世界なのか。
 漫画と、同じなのか。

 石の塀をよじ登り、そのまま飛び降りた。
 びゅんびゅんと風を切って落下していく。水面に叩きつけられる前に、ヒレ型の髪飾りをぎゅっと握って、呪文を唱える。

 
 海面が揺らめいた。
 体が打ち付けられる前に、海が手を伸ばすようにして、優しく私を包み込んで、そのまま海に引き込む。

 一刻も早く、帰らなくては!

 海藻の巻きついている塔を背にして、大きく水を蹴った。

「お父上様!」

 自宅の一室。水のない空間。
 父上の執務室を、ノックもなく荒々しく開け放つ。
 自分の父親の容姿を、今まで疑問に思ったことはなかったけれど、顔も体も脂肪でできているような、ぼっちゃりした体躯は、まさに豪遊しまくっている悪役そのままだ。なんなら鼻の下のちょび髭も、典型的な悪役に拍車をかけている。つぶらな瞳だけは、少しかわいいけども。
 嫌な汗が吹き出た。

「おお、リィル。ど、どうした? そんなに慌てて」
「一大事なんですの。お父上様。とっっても!」

 鼻息荒く足を踏み出そうとして、たくさん書類の積まれた机の上に、釘付けになる。あんぐりと、口が開いた。

「リィル……そんな顔も、父上はかわいいと思うけれど、口は閉じたほうがかわいいと思うよ。目も、海のようにキラキラした、いつものリィルのほうがいいと思っ……」
「お父上様!」

 声を張り上げると、父上は椅子から少しだけ飛び上がって、私をなだめるように、わたわたと分厚い手を動かした。

「リィル、父上はそんなつもりじゃっ、リィルは、いつもかわいい! 世界一だ! 父上にとっては!」
「そんなこと、どうでもいいんですのっ! それよりっ、それっ」
「それ……? あ、ああ。渡り鳥たちの追加手配のことかな?」
「わ、渡り、鳥……」

 机の上に置かれた、貝殻型の映写機。立体ホログラム映像を空中に映し出すそれは、連絡や観賞用に使われる。
 今は、見たことのない……、いや。何度も見た、ひとりの少年を映し出していた。

風碧かざみどり……ルイス……」

 『私』の、一番好きだった、キャラの名前だ。

 風碧という二つ名を持ち、主人公の憧れの人として登場した、イケメンキャラ。

 私は食い入るように、その映像を見つめた。

 サラサラの黄金の髪。瞳は空のように青く、戦っているからなのか、細められた瞳には残忍な色が浮かんでいた。
 右手に持った剣を振るい、敵を薙ぎ払う。髪が、なびく。前髪に隠された、額に輝く、碧の石が、静かに煌めいた。

「まったく、最近また数が増えた。簡単に法を破る犯罪者共が。こいつは……人間か。死んでてもよし、と」

 父上は、映し出されているルイスを不愉快そうに見やって、机の上の書類に何かを書き込むと、パッと映像を切り替えた。

「おおっ、これは珍しい、半巨人か? ふむ、生存のみ、と」

 くるくると切り替わっていく映像を、放心したまま見つめた。

 私の愛した漫画、『ドリームバード』。

 その本には、いくつもの謎があった。
 その謎の一つ、石版と力。

 少年漫画よろしく、謎の石版を読み解いたものには、不思議の力が宿るのだ。主人公たちは、その力を使って戦っていく。

 そして、力を使える者の証として、体のどこかに『石』が浮かび上がる。

 ルイスは、その『石』を持っていた。

 額に輝く、碧の石を……。

「そ、んな……そんなことって……」
「リィル? どうしたんだい? 顔が真っ青だ」
「あ……」

 まだ。まだ、決まったわけじゃ、ない。確かめないと。
 例えそれが、悪あがきだったとしても。

「お父上様、私、お願いがあるんですの」
「おおっ、そうかそうか! なんでも言いなさい」
「私、家庭教師の先生を、変えて欲しくて……」

 今の家庭教師の先生も、決して嫌なわけではない。やたらと博識なおじいちゃん先生だ。よく話は脱線するが、なかなか面白い。

 でも、私は確かめなくてはならない。
 ここが、本当に、漫画と同じなのか。
 否定する材料は、ひとつもないのか。
 絶望の中に希望はあるのか。

 ぐっと、顔を上げて父上を見据えた。

「十字……ディヴァイン・ワールドに所属する、ハナ・クライアントを、連れてきてくださいまし」

 漫画に、存在した人物。

 だけれども、今の私は、会ったことも、その名を聞いたこともない人物。

 果たして、今この瞬間にも、命の鼓動を鳴らしているのだろうか?

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