3 消えかけの一ページ

 地上にある、海の一族管轄の治安維持部隊、十字。
 私がこれから呼びつけるハナさんのみならず、海の塔の見張りをしているソドムとロトも所属している組織だ。

 正式名称、ディヴァイン・ワールド。

 その名前からして、一部のコアなファンの間ではいわくの組織であると、もっぱらのうわさだった。

 ディヴァイン・ワールド──

 『神の世界』

 果たしてそれは何を示すのか。
 作者の皮肉なのか、神=海の一族なのか、ドリバファンの考察は日夜続いた。けっきょく、私はその意味を理解することは叶わなかったみたいだけど。
 この十字についても、深く探っていく必要がありそうだ。

 父上がハナさんを呼びつけるのをこの目で見届けて、私は父上の部屋をあとにした。

 淡く七色に輝く廊下を歩きながら、ため息をつく。
 海の中は当然ながら海水でいっぱいだけれども、家の中に海水は存在しない。海の一族は奴隷という名の召使いを多く抱えているから、他種族の者たちが動きやすいようにという理由からだ。おそらく。詳しくは知らない。記憶が戻るまでは気にしたこともなかった。

 それにしても、どこもかしくもキラキラしてて目が痛い。
 世界で一番硬い貝殻で造られているというこの家は、壁も床も天井も、淡く七色に光っている。まるで海のマーメイドだ。過去の私が思い描いていた人魚姫だ。
 というより、今の私は人魚姫なのだろうか?
 姫ではないにしても、一応は人魚だ。足があるけども。二本生えているけれども。記憶が目覚めた今ならロボットダンスだって踊れてしまう。

 蘇った記憶と、今までの記憶がごちゃ混ぜになっていて、混乱してくる。

 どれが私で、私はどれだろうか。
 私はいったい、誰なのだろうか。

 九年間慣れ親しんだ私の部屋の扉が見えてくる。扉を開けて、中に入って、じっくりと部屋を眺める。私の知っている私──リィル・クラッドの部屋と、変わらない光景が広がっていた。
 百畳はありそうな、巨大なメインルーム。
 貝殻やサンゴをあしらったものが多く、おとぎ話に出てくる、人魚姫が住んでいそうな雰囲気だ。
 さっそく部屋の中を漁って周り、記憶に間違いがないことを確認した。
 秘密の日記も、ベッドの下に隠したお菓子の山も、やたらとコレクションしていた不揃いな石たちも。間違いなく、私のものだ。

「私は私、ということでいいのだろうか……」

 わからない。わからないけれども、難しいことを考えると、おなかが空く。考えてみれば、海の塔に行ったときから、私はおなかが空いていた。私は部屋に飾られている海の時計を見た。
 おお、ちょうどいい。おやつの時間だ。
 メイドを呼び、ケーキとお茶を持ってきてもらうように頼む。
 チョコレートを盗み食いしたことはぐちぐちと言われたけれど、すぐにケーキが出てきた。私の腹が減ることは了承済みだったのかもしれない。さっそくフォークを突き立てて、生クリームたっぷりのショートケーキを頬張った。

 そうして、私がバクバクとケーキの皿を十枚ほど積み上げたとき、控えめなノック音が響いた。

「リィル様。新しい家庭教師の方がお見えです」

 えっ! 早いな?!
 呼んだの一時間前くらいだよね? いくらなんでも早すぎない? てっきり、来るのは明日かと思って油断していたよ!
 ごくんと口に詰めていたものを飲み込む。

「ど、どうぞ! 入ってくださいまし」

 ゆっくりと、扉が開いた。
 開かれた扉の奥から、ひとりの人間が足音を立てずに歩いてくる。
 しなやかさを感じさせる、優雅な立ち姿。
 茶色のストレートの髪が後ろでくくられていて、美しい顔がよく見える。凛とした、グレーの双眸が目を惹く。

 そこにいたのは、どこからどう見ても、漫画、『ドリームバード』に登場していた、女剣士、ハナ・クライアントだった。
 カシャン、と、フォークが音を立てて床に落ちた。
 ハナさんが歩み寄って、片膝をついてフォークを拾い、そのまま私に差し出してくる。

「どうぞ。落としましたよ。お会いできて光栄です、リィル様。ハナ・クライアントと申します」

 私は、この瞬間、初めて言葉を交わした。

 漫画のキャラクターであるはずの、人物と。

「あ、ありがとうございまし。わ、私は、リィル・クラッド。来てくださって、感謝いたします」

 フォークを受け取ると、ハナさんは何かに気づいた顔をする。

「失礼。お顔にクリームが」
「えっ! どこ?!」

 手でゴシゴシと拭うと、確かにクリームがついていた。ぎゃっ、恥ずかしいっ。子どもだと思われた!?

「どうぞ。ハンカチをお使いください」
「よ、汚れちゃうから、お気になさらず。ちり紙がありますもの……」

 シュバっとティッシュを三枚ほど取り、手を拭いた。
 拭きながら、チラリと、ハナさんを見る。

 まさか、本当に存在したとは……。

 漫画と同じ、主人公と敵対関係にある、『十字』の隊服を身に付けている。白と青が爽やかで、騎士みたいでかっこいい。
 声も、アニメで聞いたのと同じ、落ち着いたハスキーボイスだ。
 漫画のキャラクターが目の前にいるという状況に、ミーハー精神を出したらいいのか、とにかく混乱したらいいのか、さっぱりわからない。

「さっそく本題に入らせていただきたいのですが」
「え、あっ、そ、そうね! あっ、座ってくださいまし! どうぞ!」

 私は、パカリと二つに口を開けた、ヒオウギ貝によく似た形の、ふわふわの椅子を示した。

「いえ、おかまいなく。すぐ終わりますので」

 ……すぐ終わる?
 ハナさんは立ち上がると、恭しく礼をした。

「お声がけいただけ、幸甚の至りです。しかし、私はさして階級も高くない、一般兵。私がお教えできるようなことは、何もないかと」

 この流れはもしかして……。
 「ノー!」と、そう言いに来たのだろうか。

「本日は、家庭教師の件をお断りさせていただくため、参りました。恐れながら申し上げますと、地上の者ではなく、海の一族の方にご依頼されるのが今後の関係のためにもなるでしょう」

 真っ直ぐなグレーの瞳が、私を見た。
 うわ、予想通り。
 うーん、どうしようかなあ。ハナさんがいることはわかったし、無理やり引き受けてもらうのは気が引ける。嫌だと言うなら無理強いはしたくない。ハナさんは、それなりに偉い立場にいる人だし……。
 ううむと考え込んでいると、ふと、ハナさんの言葉に引っかかりを覚えた。

 さして階級も高くない、って、言った……?

 サッと、ハナさんの隊服の襟元を見る。大きな青い星のバッジがひとつと、小さな白い星のバッジがふたつ。ハナさんの今の階級は、シングル・セカンド。下っ端ではないけれど、大きい顔ができるような立場でもないくらいだ。
 おかしいな……。
 漫画のハナさんは、大きな星のバッジをみっつと、小さな星のバッジをふたつ付けていた。

 ……漫画よりも前、ということ?

 漫画より前、とは、どういうことだろうか。私が知識として知っているのは、漫画で描かれていたものだけ。
 夢じゃない……?
 黙ったまま、不可解な事実に顔をしかめていると、ハナさんが小さくため息をついた。

「納得していなさそうなお顔ですね。……ひとつ、伺いたのですが、よろしいでしょうか?」
「え? あ、なんですの?」

 しまったしまった。違うことに意識が飛んでいた。今はハナさんだ。
 できるなら、もう少しだけ漫画との認識合わせをしたい。
 今の私には、知りたいことが多すぎる。

「なぜ、私だったのですか」
「…………」

 まさか、「漫画に出ていたから」とは言えまい。たとえ、嘘つきの称号を貼られ、口をビリビリに引き裂かれたとしても。

「えーっと、そうっ、女のっ、強い人がいると、そう聞いて!」
「私はまだシングルですが」
「……」
「……そもそも、なぜ、私のことを知っていたのですか。一介の隊員のことなど、海の一族の方はご興味もないでしょうに」

 ギクリと肩が跳ねた。
 ハナさんの瞳が、みるみるうちに怪しむように細まっていく。人のフリをした魔物を、見つけ出そうとしているみたいに。
 疑いの眼差しに、全身を貫かれ、冷や汗が吹き出る。

「私に恨みでもおありですか? あなたの気まぐれで殺されては、敵いません」
「……どういうことですの?」

 恨み? ハナさんに? なぜ? 初めて会ったのに? 気まぐれで、殺す? 私が?
 疑問を象った言葉の羅列が、頭の中で高速に回転する。
 誰も、殺したことない、よね。
 必死に、血を絞り出す思いで、九年分の記憶を探った。
 私は、ない。私は……。他の海の一族は……。
 私はそっと、真実という名の正義から目を逸らした。

「……いいえ。今のは失言でした。お気になさらず。申し訳ありません」

 ハナさんはしまったと言いたげに顔をゆがめた。口をピッタリ閉ざして、追求を拒絶するように頭を下げる。
 なんだろう。
 近づくと燃え広がる炎を恐れるみたいに、遠巻きにされているような……。

 海の一族は、横暴で、嫌われ者。
 漫画を読んでいたときに、『私』が思っていたことだ。
 そしてそれを、今、突きつけられている感じがする。海の一族という括りで見られている。ハナさんは、私という個人を見ようとはしていない。
 でもきっと、世界のほとんどがそうなのだろう。集団の中の一人一人なんて、丁寧に見ようとも思わない。

 あの集団にいるのはこんな人だ。
 そういう決めつけで、世界は回っている。

 スカートをぎゅっとつかんで、ハナさんを見る。
 私という人を、少しでもわかってもらいたくて。
 すがるように、でも真っ直ぐに、グレーの瞳を見た。

「私が、知りたいのは。地上のことですの。十字にいるハナさんなら、大地を踏んだ感触も。木の匂いも。花の色も。切磋琢磨生きる人の暮らしも。ご存じかと思いまして」

 ハナさんは、一瞬だけ眉を動かした。

「人の暮らし、ですか……」

 ほんの、コンマ数秒。
 ハナさんは目を伏せて、また上げる。

「なぜ、地上のことが知りたいのですか」

 そうしてハナさんは、静かにそう口にした。
 ハナさんの、冷たくも見えるグレーの瞳。きれいな目だと思った。強くて、屈しない、人を従える者の目。
 ハナさんの背後からにじむ迫力に、一介の小心者である私はゴクリと唾を飲み、手を握りしめた。

「何も、知らないから」
「……」
「私は、地上に行ったことが、ないんですの。だから、何も、知らない……」

 だから、この世界がドリバと同じなのか、そうではないのか、判断ができなくて困っている。

「知らないことを、知らないままにしておくなんて、とても、恐ろしいと……そう思いませんこと?」

 自分が悪役かもしれないんだぞ。主人公に叩きのめされるかもしれないのだ。
 こんなに恐ろしいことはない。
 少なくとも、私はそう思う。

 ハナさんはしばらく黙って、口元を少しだけ緩めた。

「あなたは、無理やりやれと、そう命令なされないのですね。あなたが一言、命令だと、そう口にしたなら。私のような一兵士が、とやかく言うことなど出来ないと、いくら小さくともわかっておいででしょう?」
「命令では、人の心は動かないもの」
「……」
「私が知りたいのは、本当の姿。貝の奥に隠れる真珠のような、小さな、でも大きな輝き。命令で無理やり言うことをきかせたって、隠した真珠を見せてはくれないでしょう? 私の望むものは手に入らない。それなら、命令することに、なんの意味があるんですの?」

 小首をかしげると、ハナさんは黙り込んだ。
 やがて、深く息を吐き出して、仕方ないと言いたげに首をすくめる。

「わかりました。ですが、少し、考える時間をいただけませんか」
「……考える時間? なんの?」
「家庭教師です」
「えっ!」

 引き受けてくれる気になったのかっ?! 断ろうとしてたのにっ? 命令してないよっ? なぜ!? まさか脅しっぽかった?!
 まずい、それは悪役一直線じゃないか。私は平和主義だ。存分に無害だとアピールしておかねば。

「いろいろ、やらねばならないこともあるので。何せ、明日、遠征予定でしたので」
「そ、それはっ、ごめんなさい……。でもっ! いいお返事、とってもとっても、とーっても! 期待してっ、えぇと……そうっ、ひとりで、ひとりでっ! 寂しく、ずっと、ずっと、この海でっ、待っています……っ!」

 共謀者もいない、ぼっちの引きこもりだと訴えた。

「……ははっ。そんなに顔を近づけなくとも聞こえますよ。……あなたは、私の……」
「……え?」
「いいえ、なんでも。独り言です」

 ハナさんが、笑った。小さく、顔をほころばせて、楽しそうに。

 私の、……なんだ?

 ……運命の、人?

 うっかり、ちょっとときめいた。蝶と花が喜びのダンスを踊った。
 ハナさんは美人だ。でも、たとえ世界が百万回生まれ変わったとしても、運命の人なんて口にする人ではないだろう。

 なんのことだか、宇宙の不思議を探すくらいわからないけれども。
 胸の奥が、ぎゅうぅっと、締め付けられて、熱くなった。この気持ちは、なんだろう。高揚感のような。憧れのスターに褒めてもらえて、一気に山を駆け上がったような、動悸。ミーハー精神かもしれない。
 ハナさんは、女キャラの中でダントツに好きだったのだ。そして、その期待を裏切らない誠実さと、カッコ良さ!
 カッコイイって、罪だ……。

 一礼をして去っていくハナさんの背中を、私はぼんやりと見送った。

 ハナさんがいた。話した。動いた。
 わりと漫画の性格に似ていた。
 もしも仮に、仮にっ! ココがドリームバードなのだとしたら。私は……。
 あれ。私は、どうなる? 悪役だというのは、何となくわかっているけれど……。定番でいうと、ボコボコたこ殴りコースだけど……。

 そういえば、ドリームバードって、完結してたっけ?

 記憶を探る。奥の奥の奥の谷底を覗くように、必死に、必死に記憶の窓を開け放った。

「……ない」

 完結した記憶が、ない。
 ない? そんな馬鹿な! 私はドリームバードが好きで、好きで、好きでっ。本誌も単行本もアニメも、欠かさず見ていたんだぞ?!
 なのに、完結した記憶が無いなんて、ありえない。
 そもそも、私は、どうして、ここに。
 あ、れ。
 『私』って、死んだのだろうか?
 記憶がない。死んだ記憶もない。
 ある日突然、プツリと記憶が途切れている。

 それが、死?
 それともやっぱり、これは夢?
 だとしたらずいぶんと長い、リアルな夢だ。でもトリバを愛する私ならば、ドリバの夢を見るというのも、ありえないことではない。

「……夢、なのかな。自分に都合のいい……。でも、ならどうして海の一族? 普通、ルイスの親友とか、ルイスの恋人とか、ルイスの奥さんとか、とんでもなく強くて美人で、誰からも好かれてしまうような、プリティーガールになるはずでは?」

 私の願望が弱かったのだろうか。そんな馬鹿な。私はルイスにぞっこんだった。

 ならなぜ、私はルイスの敵をしているのだ。

「世界は不思議に満ちている。誰かが言ってたなあ。誰だっけ……」

 でも夢なら、なんでも思い通りになるのかな。
 ハナさんも、なぜか急に、家庭教師を引き受けてくれそうな気配があったし。明らかに不自然だったけれど、夢だと言うなら納得だ。
 おおっ、そう思ったら、なんだか気が楽になってきたぞ。夢なら、なんでも思い通りになるっ!
 主人公と仲良くなって、友情を築くとか、きっと……!
 浮かれた気分でくるりとダンスを踊るように回って、ピタリと止まる。
 待て待て。九年間生きてきた記憶がある。九年もの夢なんて、あるのだろうか。

 そもそも、私は誰だ?

 リィル・クラッド。
 海の一族。漫画には……いなかったはず。

 私は部屋にある全身鏡を覗き込んだ。
 長い、くるくるとしたダークブロンドの髪。瞳は青く、どちらかというと西洋系の顔立ちだ。それなりに美少女だと思うけれど、どうだろう。そもそも、ドリームバードの美的感覚がわからない。
 でも、何度見てもこんなキャラクターに見覚えがない。

 考えれば考えるほど、わからなくなる。出口のない、迷宮のようだ。薄暗い迷路を、永遠とさまよう。
 何度も何度も、記憶の中の漫画を辿って──。

 私は、思い出す。

 忘れていた、消えかけの一ページを。

「あ……。そうだ。ルイスが、ルイスの大切な人が……亡くなってしまうんだ」

 たったひとり、かつていた、空を見上げる。悲しみを訴えかけるルイスの背中が、見開きで描かれていた。
 ほんの少し前までは、たくさんの仲間と、笑いあっていたはずなのに。何も、なくて。
 寂しそうに、目を細める姿が、痛ましくて。

 それが、胸に刺さって。
 何度忘れようとしても、取れなくて。

 ひとり取り残される悲しみの深さを、私は、知ったのだ。
 海のように深くて。空のように果てしない。

 決して、癒えることのない、悲しみ。

 大切なものは、いつも一瞬でなくなってしまうと。

 そう、まるで──海に溶ける、泡のように。

 
 私は、願ったんだ。

 もしもが、あったなら。

 ルイスが、泣いてしまうことのないよう、そんな物語、描き換えてしまうのにって。

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