1プロローグ

◆◆◆

「リンネ! リンネはどこです!?」

 ぽうっと、淡いオレンジの明かりの灯る、静寂せいじゃくに満ちた空間。

 壁という壁、全てが本棚となっており、それが目をこらしてもよく見えないほど高くまで続いている。

 まるで、神聖なものがかざられているかのような、重厚な雰囲気だ。
 その部屋の中央には、ゆったりと回りつづける巨大な天球儀がひとつ。

 どこまで見ても本で埋めつくされているその場所を、コツコツと、自分の存在を示すように靴音を立てて歩く、ひとりの男がいた。

 長い漆黒のローブを見にまとい、手には分厚い本。
 時おり下がってくる銀縁のメガネをくいっとあげては、右に左に、上下にと、男は視線を走らせる。男が首を動かすたびに、低い位置でひとつに束ねられた長い銀髪が、ひらひらと尻尾のようにゆれた。

 男の名はグリモアール。

「まったく……。リンネ! 早く出てこないと朝食ぬきにしますよ!」

 足を止めてそう言い放った瞬間、グリモアールの視界の上のほうで、影が動いた。

「ふぁ……お師匠さまどうしたのー?」

 肩に黒い猫をのせた少女が、ねむそうに目をこすりながらひらりと舞い降りてきた。

 重力を感じさせない身のこなしで地に足をつけると、少女の腰あたりまであるハチミツ色の髪がさらりとゆれ、大きな紫水晶むらさきすいしょうの瞳が顔をのぞかせる。

 グリモアールは、やる気のなさそうに見つめてくる少女リンネの頭に、抱えていた分厚い本を軽く押しつけた。

「これを見なさい」

「うわっ、本が光ってる!?」

「世界が書き換えられようとしているようです。物語の暴走でしょう」

「これがうわさの……」

 リンネはまじまじと仄白ほのじろい光を放っている本をながめた。

「このまま放っておけば、本は物語として成立しなくなり、白紙のページとなります」

「へぇぇ……」

「世界そのものが消失してしまうのですよ」

「ふーーん」

「それでいいんですか? いいんですか!? いいえ、いいはずがありません」

 リンネは本から師匠グリモアールへと視線を移し、ぎょっと身を引いた。

(うわぁ、お師匠さま目がすわっちゃってるよ)

 めんどうなことになる前に立ち去ろう。

 リンネはそろそろと、グリモアールに気づかれないように足を後ろに引いた。が。

「というわけでリンネ、仕事です」

「えっ!」

 にこやかに微笑んだグリモアールの手が、逃亡を目論もくろんでいたリンネの肩にのった。

 ぎゅうっと力をこめられ、リンネは一度師匠の手に視線をやり、今度はそっと師匠の顔をうかがい見て、たらりと冷や汗を流した。

 嫌な予感しかしない。

 ただでさえリンネは半人前だ。仕事だ仕事だと言っても、リンネがやってきたことなんて、本を整理したり天日干ししたりと、かんたんな雑務。

 本来の「管理者の仕事」なんて、リンネは一度もしたことがない。

「で、でも私、まだ半人前だし……ひとりで仕事なんて……」

 グリモアールは、天人のような微笑みで、ぽん、と軽くリンネの肩を叩いた。

「リンネ」

 優しい声音だ。でもリンネにとっては、嫌な予感に拍車はくしゃがかかっただけだった。

「なにもしなければ永遠に半人前です。仕事をしてようやく一人前になれるのです」

「そ、そうだけど……っ、でもっ」

「つべこべ言わずに行ってきなさい」

 グリモアールはリンネが持っていた、あわく光つづける本を手にし、一思いにページをひらいてはリンネに向けた。

 その行動の意味を理解したリンネが背を向けたときには、すでに遅い。

 リンネの体が本の中へと引きずりこまれていく。

「えええええ!? まだ準備もしてないのにーー!!」

 準備など、はなっからする気などなかったのだが、リンネは恨みがましくそう言った。

 やがて、完全に本の中へと吸いこまれ、リンネは姿を消す。

 パタンと本が閉じ、静かに床に落ちた。

 グリモアールはそっと本を拾いあげ、優しく本の表紙をなでる。

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