2本の中と世界

 本の中へと吸い込まれたリンネの体は、光に包まれ、そして突如空中に現れた。

 急に空へと投げ出されたリンネにとっては、たまったもんじゃない。

 状況が飲みこめず、わけもわからず手足をばたつかせ、なんとか逃れようとした。

 いきなり本の中に引きずり込むなら、せめて着く場所を伝えておいて欲しかった。
 いや、それでも空中というのだけは遠慮したかったが。

 ひゅうひゅうと、リンネの体に抗うように、風が吹きぬける。
 どんどん落下している証だ。

 いったいどれだけの高さから落ちているのか。
 そしてそんな場所に飛ばしたのはグリモアールの意思なのか。
 だとしたら、なんとも荒っぽくひどい師匠だ。

 落下しながら、両手を羽のように動かして慌てるリンネの肩から、冷静に一匹の猫が地面に降り立った。

 上下黒の衣服に、翡翠色の石がはめ込まれたリンネと揃いのネックレスが、キラリと光る。
 青年の短く切りそろえられた漆黒の髪はかすかに風になびき、前髪が白い肌を覆い隠す。

 髪の隙間からのぞく、うっすらと開けられた鋭くも凛々しい瞳も、髪とそろえたかのように深い闇の色をしていた。

 どこか艶やかさも感じる端正な顔立ちをした青年は、ゆっくりと空を仰ぎ、落下してくるリンネに手を伸ばす。

「ろ、ロン! 受け止めて! 受け止めてぇぇぇ!」

「だー、うっせぇ! もとからそのつもりだ」

 その声にほっと力をぬき、リンネは目を閉じる。

 まさかこんなことになるなんて。

 肌に感じる風も、太陽の眩しさも、リンネには酷く居心地が悪かった。いつも生活をしていた静かな、でもどこか閉鎖的なあの図書館ではない、世界なのだ。

 リンネにとってはじめて見る、本の世界そとのせかい

 リンネは図書館で過ごす、あの堕落だらくした生活が好きだった。

 好きなだけ寝て、たまに本の整理をして、料理をしたり、掃除をしたり、寝たり、寝たり、寝たり。

 リンネは人生の半分以上を寝て過ごしてきた。

 それが急に一人前になれだなんて、無理な話だ。

 リンネはこれからもずっと、堕落した生活が続くのだと信じていたのに。

「リンネ!」

 落ちたときの衝撃は全くなかった。
 ふわりと、心地よい風に包まれたような感じがしたくらいだ。

 リンネは気づいたらロンの腕の中にいた。

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫。ロンありがとう」

 ロンに支えられてゆっくりと地面に足をつけたリンネは、あらためて視線をあたり一帯に走らせ、小首をかしげた。

「ロン」

「どうした」

本の中せかいって、こんな感じなの?」

 大きな街、であるはずだ。

 むき出しの地面ではなく、石畳で整備されている通路。リンネの背丈の五倍くらいはありそうな建物が、通路の端々はしばしに並んでいる。

 リンネがかつて絵のついた本で見た街と似た景色ではあるが、リンネが想像していた『楽しげな街』とは、似ても似つかない。

「あのな……。ココは今、問題が起きてる世界だろ」

「あっ! そうだった。だからか」

 活気がなく、どこか寂しそうな街。

 それが、リンネが降り立ってはじめて抱いた印象だった。

 人が、いない。

 どれだけ首を伸ばして奥を見ても、人っ子ひとりいない。

 空を見れば、ちょうど真上に陽があった。あたりも明るく、まだ人が寝静まるには早い時間であるはず。にもかかわらず、だれひとりとして歩いていないというのは、どういうことなのか。

 リンネはアゴに手を添え、唸るような声を出しながら考える。

 わからない。さっぱりわからない。

 リンネはしょせん、半人前なのだ。

「ココがどんな世界だったのか思い出せないのか?」

「うーーーーーん」

「何か手がかりはないのか」

「うーーーーん」

「おい、リンネ」

「んーーーー。さっぱりわからない!」

「……ま、そんなことだろうと思ってたさ」

 ロンは目を半目にして、諦めたようにリンネから視線を街に向けた。

「でも私は」

 リンネの声に、ロンは再び視線をリンネに向ける。

 きゅっと唇を引き結び、こぶしを握るリンネがいた。

「帰るよ。あの場所に」

「…………」

「絶対に、帰る」

 リンネはじっと、にらむように地面を見つめた。

「わかってる」

 ロンは手を伸ばし、リンネのハチミツ色の髪を優しくいた。

「もともと、管理者は問題を解決したら帰る。長くは止まっていられない。そう教えられただろ。あいつに」

「うんっ」

 リンネは力一杯うなずいて、大きくこぶしを空に向かって突き出した。

「立派にこなして、あの悪魔な笑顔のお師匠さまを、ぎゃふんと言わせてやろー!」

 リンネはもともと、本の中の世界になんて、なんの興味もなかった。

 グリモアールに、「本の中には世界があるのですよ」と何度説明されても、リンネは「ふーーん」と、人ごとのように思っていた。

 

 リンネは長い髪をなびかせ、ロンを振り返った。

「じゃあまずは、原因調査ね!」

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