家に入ったとたん響き渡った怒号にエイリーは身をすくめる。
バレないように家を出て来たと思ったが、どうやらそう上手くはいってくれなかったらしい。
「た、ただいま、父さん」
引きつった顔で、エイリーは扉を閉めた。
自分とよく似た薄茶の瞳が、機嫌悪そうに眇められているのを見て、エイリーはこの手負いの獣のような父をどう言いくるめるか、必死に考える。
「どこに行っていた?」
「えーと、ちょっと散歩に」
「雨降っていただろう」
「あー、うーん、そうだね」
考えていたから、深く考えずに適当に相槌を打った。すると、父親の瞳が獲物を捕らえた狼のように細くなった。
「エイリー。どこも濡れてないが、本当に、散歩だったのか?」
エイリーは飛び上がる思いで自分の服を見た。そういえば、セスが不思議の力を使ってくれたのだ。今のエイリーは、下手をすれば家を出たときよりもピカピカに磨かれている。くたびれていたはずのワンピースも、卸したてのように見えてしまうほど。
エイリーはジリジリと追い詰められるような嫌な恐怖に飲まれる。言い訳がいくつも頭に浮かんでは消えていった。
「え、と」
「あの男のところじゃないだろうな」
エイリーの心臓がひゅっと縮まった。あの男というのはセスのことだ。バレている。ごまかす暇などないくらい、筒抜けだろう。それでもエイリーは言葉を探して視線を彷徨わせる。
「エイリー!」
「ち、違うよ。セスじゃない」
責めるような声に慄き、エイリーはとっさに首を振っていた。そして、嘘をついたことに小さく胸が痛む。
その罪悪感から逃げるように、エイリーは父の脇をすり抜けた。そんなエイリーの背中に、声がかけられる。冷たい声が。
「何度も言っているだろう。あの男には、関わるな。いいな?」
エイリーはそれには応えず、黙ったまま自分の部屋に向かった。
自室の扉を閉めて、ベッドに倒れこむようにして枕に顔を埋めた。
「どうして誰も、わかってくれないの」
過去に、不思議使いたちによって災いが降り注いだらしい。それから、不思議使いは忌避される存在になったと言われている。
でもエイリーは、不思議の力は怖くない、優しい力だと思う。
エイリーと同じように、近くで見たことがあったなら、関わるなだなんて言えないはずだ。だって、セスの力は、いつだって夢みたいな奇跡を呼ぶ。
くるくる踊るティーカップ。
薄汚れてしまったエイリーを一瞬で輝かせる。そんな力だ。
セスはエイリーを傷つけたことは一度もない。
なのに、よく知りもしないで否定する。
うつ伏せになったまま、エイリーはぎゅうっと強く布団を握り締めた。
セスは、エイリーにたくさんの奇跡を見せてくれるのに、エイリーは、セスに何ひとつだって返せやしない。
ゆっくり体を起こすと、エイリーは窓から外を眺めた。少し離れたところに、セスの家がある丘が見える。その背後には、満天の星空。キラキラとした光の粒が、静かに大地に降り注いでいるのが見えた。
次の日、目が覚めるとすぐに、エイリーは両親に呼ばれた。
「お使い?!」
手渡されたお金と、一通の手紙。
港町にまで届けて欲しいと言う。どうして急にとエイリーは戸惑った。港町まで行って帰って来るとなると往復で一月はかかる。けっこうな長旅だ。
「町長から頼まれてな」
「わ、私に?」
「そうだ。これであの男に会うこともできないだろう」
父親はおおらかに笑って、エイリーの肩を叩いた。
やっぱり、バレていたのだ。昨日、雨の中、エイリーがセスのところに行っていたことが。言いつけを守らない娘に対する仕置ということだろうか。
エイリーは小さく溜息を吐いて、お金と手紙を手にする。
「……行って来る」
「馬車は一日一本しか通らないからな。乗り遅れるなよ」
エイリーは黙って頷いて、旅支度をするために自分の部屋に戻った。急がなければ乗り遅れてしまう。そうなれば、父親の機嫌がまた悪くなることは目に見えていた。
簡単に持ち物を整えて、エイリーは走って馬車乗り場に向かう。何とか馬車に乗り込むことが出来て、ほっと息を吐いた。
何本か馬車を乗換えること数日。
エイリーは国有数の港町に到着していた。潮の匂いが鼻の奥をくすぐって、少しベタついた風が吹き抜けていく。
船乗りが多く、活気のある爽やかな街だ。
田舎者丸出しで忙しなく街の中を見ながら、エイリーは足を進める。ひとまずお使いを終えようとしていた、その時。
「聞いたか? 今起きてる異変、全部不思議使いたちの仕業だって話しだ」
そんな声が聞こえて、エイリーは足を止める。来た道を少し戻って、露店を見ているフリをして耳をすました。
「でも王宮にも不思議使いは居るんじゃなかったか? 大賢者とか呼ばれていたような」
「どうだかな。本当にいるのかも怪しいもんだ」
言葉の節々から、嫌悪の色が見え隠れしていた。エイリーは、ただぎゅっと唇を引き結ぶ。知らない人に突っかかってしまわないよう、戒めるように拳を握りしめた。
「不思議使いなら、豪雨も日照りも竜巻も大津波も、なんでも引き起こせるって話だ」
「なんだそれ、人じゃねェ」
「元から人じゃないだろ、アイツらは」
耳をそばだてながら、エイリーは胸の奥にモヤモヤとした黒いものが広がるのを感じた。
「お嬢ちゃん、何か買うかい?」
露店のおばあさんに声をかけられて、エイリーは胸にモヤモヤしたものを抱えたまま、キッと露店を見た。
「リンゴ! 一個!」
エイリーは歩きながらリンゴをそのまま齧る。
(いくら不思議使いだって、天変地異が起こせるはずがない)
そう考えて、首を捻る。
本当に、そうだろうか、と。
セスがどんなことまで出来るのか、エイリーは知らない。それに、世界にいる不思議使いは、セスだけではないのだ。
(帰ったら、セスに聞いてみよう)
セスは世界の異変について、どこまで知っているのかと。
お使いをすませ、エイリーは帰りの馬車に乗り込む。お土産にと、星の形をした砂の入った砂時計を買った。セスの瞳の色に似た、金色の砂だ。
来た時と同じだけの日数をかけ、いくつもの馬車に乗り換え、ようやく村へと向かう馬車に乗った時だった。
道の途中で、馬車が止まる。
「えっ、どうしたんですか?」
エイリーは驚き声を上げた。
エイリーと同じように動揺する乗客たちに、御者の男の声がかけられる。声が震えている。馬車の中からだと顔は見えないが、怯えているようだった。
「竜巻だ!」
一瞬の、沈黙。
馬車の中で乗客たちは顔を見合わせ、ゆっくりと意味を噛み砕くと、とたんに馬車の中は騒めいた。
パニックになる者、いるのかも分からない神に祈る者、泣き出す者、様々だ。
その中でも、パニックになっていた一人の男が馬車から飛び出した。そして、声を張り上げる。
「スティアラ村のほうだ」
その声に目を剥いたのはエイリーだった。乗客たちを押しのけて、外に出る。そして、空に伸びるように渦を巻く荒々しい風を見て、息を飲んだ。
「父さん、母さんっ!」
スティアラ村は、エイリーの住む村だった。
それが、今まさに巨大な竜巻に襲われている。エイリーは、絶望がヒタヒタと足音を響かせてやって来たのを感じ取った。エイリーの耳元で息を吹きかけ、怪しく笑う。
人が止めるのも構わず、エイリーは止まってしまった馬車を置いて駆け出した。
何度も石に躓きそうになりながら、悲鳴を上げる肺にムチを打って、走って、走って、ようやく、村の近くにたどり着く。
人がいた。何人かの村人たちが避難していたらしい。ほっと息をついて、エイリーは自分の両親の姿を探す。だけれども、どれだけ探しても見つからない。
「父さん、母さん!」
パニックになっている人の中、声を張り上げながら、何度も何度も探した。
「エイリー!」
しわがれた声に振り返る。そこには、杖をついて頼りなく歩く、スティアラ村の村長がいた。
「村長! 父さんと母さん知りませんかっ?」
村長は、黙って視線を竜巻のほうへ向けた。意味を理解して、エイリーは息を飲む。確かに、竜巻はエイリーの家のほうだ。
すぐに駆け出そうとするが、村長が前に立ち塞がり、エイリーの行動を遮った。
「どいて!」
「落ち着くんじゃ」
「落ち着いてなんて居られるはずないでしょ!」
エイリーは村人たちが止めるのも構わず、竜巻のある、自分の家のほうへ走り出した。
強い風が吹き抜ける。簡単に吹き飛ばされてしまいそうな、荒々しい風がエイリーを襲った。足を進めたいのに進めない。風の抵抗が強すぎて、目を開けることも困難だ。
エイリーは、地面に生えている木にしがみつきながら歩く。その木も、今にも浮き上がって、空へと飛ばされてしまいそうだった。
エイリーの顔の横を、木の枝がかすめていった。その拍子に、頰に赤い亀裂が入る。家だっただろう木の破片や、石、瓦礫が四方八方から飛んで来る。
薄目を開けたエイリーの瞳に、木彫りのうさぎが映った。エイリーの家の前にあった置物だ。しかも、うさぎの耳には血の跡があった。
ひゅっと息を飲む。
動悸が激しくなり、嫌な予感が止まらない。
(どうして、こんなことに)
ふと、港町で耳にした噂話を思い出した。
天変地異は、不思議使いが起こしている、と。
そんなまさかと思いながらも、エイリーは丘の上に視線を向けた。竜巻の進路から離れていたのか、最後に見た時と変わらないあばら家があった。
ぎゅっと唇を噛み締め、エイリーは首を振る。
(違う、セスはそんなことしない)
それでも。この竜巻を止められるのは、セスしかいないのかもしれない。
木を伝って歩きながら、エイリーは竜巻の中心地までやってくる。とても巨大で、エイリーなんて簡単に吹き飛ばせてしまえるはずなのに、どうしてか、エイリーは立つことが出来た。見た目よりも、ずいぶんと風が弱いのだ。
木につかまったまま、自分の家があった場所へと視線を向けて、エイリーは息を飲む。
風に揺らめく、銀色の髪。いつも括っているはずの髪が解けていて、突風になびいている。辛そうに歪められた顔。うっすらと、汗が滲んでいた。
黄金の瞳を持つ不思議使いは、巨大な竜巻の前に立って両手を突き出し、その進行を食い止めていた。
そして、そんなセスの後ろには、村人たちがいた。
怪我をして、不安げに震えている人たちが。そこには、エイリーの両親もいた。
胸の奥が、ぐぐっと詰まる。息が苦しい。鼻の奥がツンとした。
「せ、セス!」
大きな声で呼びかけると、黄金の瞳がエイリーを見た。そして、ほっとしたように、泣きそうに、その瞳が緩んだ。
形のいい唇が、「よかった」と動いたのを見た。
ああ、そうかとエイリーは思う。
言っていなかった。馬車に乗り遅れないようにと急いでいたから。セスに、しばらく留守にすると、伝えていなかったのだ。
胸の奥が、静かに優しく、締め付けられたような気がした。