神官様のお使いで街の中を歩いていると、至るところで勇者の話がされていた。もう国中その話題で持ちきりだ。
「この世界が闇におおわれるらしいぞ……」
「空から魔王が降ってきて世界を征服するらしい」
「美しい女をさらって生き血をすするそうだ」
「怖い……」
「恐ろしい……」
怯える人の合間を縫って、パン屋にやって来る。
「すいませーん。堅焼きパンふたつくださーい」
「はいよ、ご贔屓にどうも!」
長いパンをふたつ受け取って、来た道を戻る。まだ人々は井戸端会議をしていた。まったく、暇なことだ。
「魔王を倒した勇者様は姫様とご結婚なさるらしい」
……ん?
ピタリと足を止める。私は巻き戻った。そして、笑顔で井戸端会議に参加する。
「そのお話、詳しく聞かせてもらえますか?」
***
「ただいま戻りましたー」
「おやミリア、遅かったです……ね?」
書類から顔を上げた神官様は、私の顔を見てぱちくりと目を瞬いた。
「どうしました?」
「別に何でもありません」
どっこいしょ、っと、持っていた荷物をテーブルに置く。
「ミリア、私は神官ですよ。迷える子羊の悩みを聞くのが仕事です」
顔にワクワクって書きながらそんなことを言われても。
「楽しんでますよね?」
「いいえ。真剣です」
真剣に楽しんでるでしょう、その顔は。
でも、まあいいか。聞くだけなら。
「神官様、勇者がお姫様と結婚するって、本当ですか?」
神官様が、首をかしげながら私を見た。
「婚姻の申請は届いていませんよ?」
「……街で、噂を聞きました」
「噂は噂でしょう。噂に惑わされるような人になってはいけませんよ、ミリア」
「……でも……」
神官様の言うことはもっともだった。噂に踊らされるのはよくない。
「ならば、確かめてくればいいでしょう」
「……え?」
神官様はニコリと笑って立ち上がると、横の壁に張り付くようにして並んでいる戸棚から、一枚の紙を取りだした。
「ちょうど、城へ届け物があったんです。私は今手が離せないので、ミリア、お願いしても?」
差し出された紙と、神官様の顔を見比べる。
じわじわと意味を理解して、両手で紙をつかんだ。
「は、はいっ! 行ってきます!」
お城へと続く道のりを急ぎながら、預かった書類を大切に抱きしめる。
神官様はできた人だった。何だかんだで慈愛に満ちた人だ。最初、騙して引っ捕まえたことが申し訳なくなるくらい。
城門で神官様の遣いだという身分証明をする。あっさりと、門は開かれた。神官様様だ。
広々とした廊下を歩きながら、アルジールの姿を探す。お城にいるはずだけれど、どこにいるんだろう。
耳を澄まして話し声が聞こえないかと思っていると、ふと、窓の外に見知った黒髪を見つけた。中庭だ。私は急いで踵を返すと、人に尋ねながら中庭を目指した。
薔薇が咲き誇る中、にょきっと首から上が飛び出た黒髪を見つけた。アルジールだ。驚かせてやろうと、後ろから忍び足で近づく。
薔薇の茂みに背中を預け、そおっとのぞこうとして、話し声が聞こえて止まる。
「行ってしまわれるのですね」
鈴を転がしたような、繊細でいて、可憐な声が響いた。ドッと心臓が速くなる。まさか、と嫌な予感が過ぎった。
私はそのまま、耳をそばだてた。
「心配しないでください。役目は果たしますよ」
アルジールの声だ。聞いたこともないような、柔らかな声だけれど。
「……心配、するのは、いけないことですか?」
あんまりの可憐さに、私の心臓が飛び出した。怖いもの見たさで、そぉっと、気づかれないよう、目だけ出して覗いてみる。
そして、見なければよかったと、後悔した。
一目見てお姫様だとわかるくらい、その人は美しかった。サラリと流れる金色の髪。頭の上には宝石がいくつも付けられたティアラがあった。
こちらを向いているから、顔がよく見える。
大きな青い瞳。その瞳こそが宝石みたい。ほんのり色づいた頬は、女の私ですら庇護欲をそそるし、なんなら抱きしめてしまいたくなる。
何もかもが、違った。
薄汚れた田舎娘とは。
お姫様が、たよりなくアルジールの服をつかんでいた。それを見て、なんだかいたたまれなくなる。
あれ、私もやった。
でもきっと、あんなに可愛くない。お姫様がやると、あんなに抱きしめたくなるくらい可愛いんだ。
情けないような、悲しいような。
でも、ハッキリと感じた。
敵わない。
私には、あんなに抱きしめたくなるような可憐さはない。それどころか、洗剤を貸せと右手を突き出すような女だ。
綺麗なお洋服も、地位も、名誉も、財宝も、何一つ持っていない。
お姫様と結婚したら、アルジールはそれ全部を手に入れることができる。
勝ち負けどころか、私はどう考えても、同じ土俵にすら立っていない。
蚊帳の外だ。
小さくため息をついた。
これ以上聞いてはいけない気がして、私は気づかれる前にその場をあとにした。