国を守護する役目を担う聖女、リリア・エスカーナは、信じられない思いで椅子に腰かける王太子を見た。
たった今、リリアは聖女解任を言い渡されたのだ。
「え、と。それは、自由になる、ということでしょうか?」
「おまえの頭は本当に能天気だな」
王太子は呆れたようにため息をつく。
「おまえが本物の聖女ではないことがわかった」
「申し訳ございません、殿下。おっしゃる意味がよくわからず……」
聖女に偽物や本物がいるなんて話、リリアは聞いたことがなかった。
聖女は聖女として選ばれた瞬間から、死ぬまで聖女だ。神の声を聞いて、人々を癒す。祝福の力を使って国を守護する。
聖女は世界にたったひとり。
「自分が聖女だと、名乗り出る者がいた」
「どういうことでしょうか……」
「本物の聖女を見つけた。シルカ・ロール。おまえも知っているだろう?」
「シルカが?」
リリアは驚いて目を瞠った。
シルカ・ロール。
リリアにとっては、馴染みの深い名前だ。
シルカはリリアにとって親友と呼べる間柄なのだから。
「シルカが、聖女なのですか?」
リリアは戸惑いながら問いかけた。
驚きはあったものの、本当にシルカが聖女なのだとしたら、この役目を譲ろうと思った。
もともと、リリアが望んでなったわけでもないのだ。
「そうだ。聖女選定のとき、おまえとシルカは共にいたそうだな」
「はい、一緒にいました」
「そのとき、魔法陣が地面に浮かび上がった。間違いは?」
「ありません」
リリアは淡々と答えていく。全部本当のことだった。
王太子はふぅーと長い息を吐き出すと、射抜くような強い目でリリアを見た。
「本当に選ばれていたのは、シルカだった。それなのにおまえが、自分が聖女だと名乗りあげたそうだな」
「え……?」
「今おまえが持っている聖女の証とされる宝玉は、偽物だろう」
リリアはとたんに顔を強ばらせた。
「そんな、偽物のはずが……」
「嘘をつくのも大概にしろッ! 七色の石など、どの文献にもなかった!」
「そんな……」
「もともと、変だと思っていたんだ。おまえを見た瞬間からな!」
リリアはひゅっと息を飲んだ。
「どういう、ことですか……」
「何を企んでいる? 正直に話せ。国の乗っ取りか? 何を命令された?」
「意味が、わかりません」
「嘘をつくなッ!」
吠えるような怒号に、リリアは身をすくませる。
何を言われているのか、本当にわからなかった。
「わ、私は何も知りませんっ!」
悲鳴のような声が口から飛び出た。
恐怖で指先がカタカタと震えた。いつもは薄いピンクをしている唇も、今は血の気が引いて紫色になっていた。
「埒が明かないな。なら、おまえが本当に聖女だと言うのなら、今すぐここで祝福の力を使ってみせよ」
リリアは震えながら、左手を首に付けられている宝玉に伸ばし、右手を王太子に向ける。
だが、どれだけ待っても。
リリアが何度必死に祈っても。
何も、起こらなかった。
神々しい光が出ることもなければ、あたたかな祝福が授けられることもない。
リリアは呆然と自分の右手を見つめた。何度か握っては開いて、もう一度試してみる。
けれどもやっぱり、聖女の祝福は起こらない。
どうして、どうして、どうして。
そればかりが頭の中を駆け抜けた。焦ってみても、何も変わらないというのに。
ふと、王太子と目があった。「やっぱり、そうだっただろう」という目をして、王太子はリリアを見ていた。
失望したような、はじめから期待していなかったかのような目をしていた。
「……殿下」
リリアはくしゃりと美しい顔を歪めて、か細い声で呟く。
そんなリリアに向かって、王太子が口を開いた。
綺麗なバラが、目の前で朽ちていくのが楽しいと言いたげに、その唇は醜く歪んでいた。
「おまえには、失望したよ、リリア」
突きつけられた言葉に、リリアの世界が歪む。
うまく呼吸ができないほど苦しくて、紫の唇からはくはくと空気が抜けていく。
「人を欺くのは、楽しかったか?」
リリアはハッとして顔を上げた。
「違います! お待ちくださいっ、殿下! 本当に私は、何も……っ」
「黙れ、この嘘つき女が! 聖女の立場を利用し、国民を欺いた罪は重いぞ! 衛兵! すぐにこの女を追放しろ!」
「殿下……!」
控えていた兵士たちに後ろから羽交い締めにされるリリアへ、王太子は最後の刃を向ける。
「本当なら、おまえは処刑されるはずだった」
それは、リリアの居場所はこの国のどこにもないと、そう言っているのと同じだった。
「処刑……」
リリアはどこか人ごとのように呟いた。
死んでいたかもしれないというのに、何も思わなかった。
王太子は生気をなくした目をするリリアを鼻で笑って、餞別だと言いたげに言葉を投げつける。
「シルカの温情だ。本物の聖女は考え方から違う。シルカに感謝することだな」
自分を憎悪の目で見る王太子が怖かった。いつも、「頑張ってるな、リリア」とそう言って笑っていた王太子はいない。
届かない虚しさをかき集めて、何が悪かったのか考えてみるけれど、何も浮かばない。
「おらっ、さっさと動け!」
「や……!」
腕を乱暴に引かれて、肩が痛む。腕が抜けてしまいそうだ。
痛みににじむ涙を堪えながら兵士たちを見ると、少しだけ力が緩んだ。それにほっとしながら、リリアはゆっくりと王太子を振り返る。
目があった瞬間、わずかに眉を揺らし、すぐに連れて行けと顎で扉を示す。
兵士たちに誘導されるまま、リリアは王太子の部屋を後にした。
衛兵に両脇を固められながら城の中を進んでいると、前方に見慣れた薄い水色の髪が見えた。
肩の辺りで切りそろえられた、サラサラの髪。「長いと、邪魔なのよね」と笑って、バッサリ髪を切っていた少女。
普通とは違うことも、ためらいなくやってしまうシルカのことを、リリアはかっこいいと思っていた。
リリアとシルカの接点は、リリアが作ったものだった。奇異な目で見られているシルカに近づき、話しかけた。そんなリリアを、シルカは目を丸くしながら見ていた。
リリアを見ながら儚げな表情をするシルカに、リリアはさらに惹かれた。
そこからはじまったはずの友情は、どうしてか、今はバラバラに崩れてしまっている。
ツンと澄ました顔をして歩いて来たシルカは、リリアのことなんてまるで目に入っていないかのように、リリアの横を通り過ぎようとした。
リリアはカラカラに乾いた口をなんとか動かして、シルカに声をかける。
「シルカ! ねぇシルカ、どういうこと? シルカ、聖女だったの? 言ってくれたらよかったのに……」
「あら。あなた、まだいたの?」
「シルカ……?」
冷たい、蔑むような瞳で、かつてのリリアの親友は、リリアを見た。そんな目をしているのを、リリアは一度も見たことがなかった。
悪魔にでも乗り移られたかのような豹変っぷりだ。
「もうあなたの居場所なんて、ココにはないの。さっさと出て行ったら?」
「シルカ、どうしちゃったの? 変だよ。だって、私たち、親友でしょう?」
シルカは笑う。リリアのことを見下すように。真っ赤な唇で、リリアを祝福する言葉ではなく、地獄に叩き落とすための呪詛を吐く。
「あなたのことを親友なんて思ったこと、一度もないわよ」
今まで聞いたどんな言葉よりも、それは呪いの言葉に思えた。
処刑だとそう宣告されたときよりも、リリアの心はギシギシと痛んだ。
信じていたものに裏切られたのは、はじめての経験だった。
「……っ、な、んで……?」
溢れ出そうな涙を、必死に堪える。
シルカはそんなリリアを見て、優雅に口角をあげた。
「どん臭くて、頭も悪くて、お人好しなリリア。私はいつだって、バカなあなたが大嫌いだったの。知らなかった?」
リリアの口がかすかに開き、ハクハクと口から息が漏れた。
「あんたの顔なんて、もう二度と見たくない」
「……なんで……っ」
「サヨウナラ、嘘つき聖女のリリア」
ニッコリと笑ったシルカは、ふいとリリアから視線をそらすと、背を向けて歩き出した。まっすぐに伸びた、振り返らない背中を見つめて、リリアは静かに涙を流した。
大きな紫の瞳がゆらめき、嗚咽が溢れはじめる。
その場に崩れ落ちて泣くリリアを慰めてくれる人は、どこにもいなかった。
耳にこびりついて取れない声が、ただただ悲しい。
──「リリア。大丈夫。何があっても私が守るわ」
そうやって、リリアに微笑みかけてくれていたのは、いつだっただろうか。
リリアの苦手な剣技の授業のときだっただろうか。
差し出された手を握って、同じだけの歩幅で歩いていたはずだったのに。
どこですれ違ってしまったのだろう。
リリアの目から流れ落ちた雫が、輝く床に落ちてキラキラと光るのが、酷く滑稽だった。
どれだけ泣いたとしても。
あの日々はもう二度と、帰ってはこないのだ。
こうして、聖女になってひと月もせず、リリア・エスカーナは国外追放となった。