リリアが目を白黒させていると、ガシャーンッとガラスの割れる音が響いた。
ピタリと手を止めるグレイと、口に指を突っ込まれたまま不安げに視線を揺らすリリア。
またひとつ、ガシャンっと、ガラスの割れる音がした。またひとつ、またひとつと、音が響き、いくつもの悲鳴がホールの中をつんざいた。
「ぼ、ぼふ……」
「リリア、いいから吐け」
「で、でましぇん……」
情けなく眉を下げて、リリアは首を振った。
そこに、袋と水を持ったシーカーが帰ってくる。
「何があった?」
「人が倒れてるすね。たぶん、同じように毒の入ったものが配られたのかもしれません」
「毒の発症時間は」
「わりと即効性だと思いますよ。俺も今、舌が痺れてるんで」
グレイがシーカーから水を受け取って、リリアに飲ませる。
リリアは水に溺れそうになりながら何とか飲み干した。
そしてすぐさま口に指を突っ込まれそうになって、涙目になりながら身を引いた。
「オラ、口開けろ。毒で死ぬのとどっちがいい」
いつの間にか、人がみんな倒れている。動いている人も数人いるが、動転しているのかパニックになっている。
リリアは会場を見つめ、その惨たらしい状況に息を飲んだ。
綺麗なドレスも、キラキラ光る宝石も、床に落ちてしまっている。
苦しそうな人のうめき声があちこちから響いていて、まるで墓地の死者が蘇ったかのような不気味さだ。
「た、助けないと……」
「落ち着け。シーカー、人呼んでこい。おそらく外に手練がいる。バレるんじゃねェぞ」
「了解」
リリアが瞬きをした次の瞬間には、シーカーの姿が消えていた。
「ええっ」
「うるせェ。声出すな。シーカーもウィングだってのは知ってんだろ」
「あ、そ、そうでした……」
「それよりリリア、本当に何ともねェのか」
「と、とくには」
「舌が痺れたり」
「いいえ」
「体が動かなくなったり」
「いいえ」
リリアが首を振ると、グレイは形のいい眉を寄せた。
「とりあえず吐け」
「ええっ! じゃ、じゃあ、お手洗いに……」
「あァ? ンな悠長なこと言ってる場合か! 死ぬかもしれねェのがわかんねェのかっ?!」
青筋を浮かべてグレイが怒鳴る。
「ご、ごめんなさい……」
「なら吐け。口開けろ。ったく、冗談だろ……。死神でもついてるってのかよ」
口の中に指を突っ込まれながら、リリアはグレイを見た。焦燥しきっているように見えた。
背後から迫る何かに、追い立てられているようにも見える。
「おや、まだ動ける人がいたとは……」
穏やかで、でもどこか薄気味悪い声が聞こえた。グレイが庇うようにリリアの肩を抱く。
リリアは声のしたほうに顔を向けて、目をまるくした。
「あなたは……」
「また、会いましたね。レディリリア。毒はお気に召しませんでしたか?」
リリアが迷子になっているときに、一緒にグレイを探そうとしてくれた紳士だった。
「えぇと……」
「安心してください。毒と言っても痺れ薬ですよ。少し動けなくなるだけです」
それを聞いてリリアはひとまずホッとした。
そして、刺すような視線が注がれているのに気づいて、紳士の方を向く。バチンッと視線が絡むと、紳士はうっとりと顔を崩してリリアを見た。
「あなたのような美しい人は、はじめて見ました。その紫の瞳……まるで宝石のようだ。抉りとったらどれだけ美しいでしょう。あぁ、でもそれはもったいないですね」
ぞわりと、リリアの背筋に悪寒が走る。
細かく体を震わせながら、キュッと、グレイの服をつかんだ。
紳士の瞳が、リリアからグレイに移った。同時に、にこやかな表情から仮面のような真顔へと変わる。
「グレイ・ベアードか……。厄介な人がいたもんだ」
「犯人直々にお出ましとはな」
「レディリリアを引取りに」
「あァ? 馬鹿言ってんじゃねェぞ」
「おや、毒は少量でも効果があるはずですよ。本当は、体が痺れてきているのでは?」
リリアは驚いてグレイを見た。よく見れば、確かに額に皮脂が浮かんでいる。
「ぼ、ボス」
「いいから、下がってろ」
「でも……」
リリアは不安げに言い淀む。
「レディリリア。取り引きをしませんか?」
「……え」
「あなたが大人しく着いて来るなら、ここにいる人には危害は加えません」
リリアの瞳がゆれる。
「ですが、そうですねぇ。元々、女子どもは攫っていき、男は皆殺しの予定でした。もちろん、あなたが拒否するなら、当初の予定通り決行します」
ニコリと、紳士的な笑みを浮かべて、男がリリアに手を差し出す。
「いかがです? レディリリア」
リリアは音なく喘いだ。
自分の命と、大勢の命を選べと言われているのだ。
「おい、リリア。行かなくていい」
リリアはうつむいて、瞳を左右に揺らす。
「本当に、みなさんを助けてくださいますか?」
「おいっ、リリア!」
「もちろんです。約束しましょう」
リリアは顔を上げる。瞳に強い決意を宿らせて。
「じゃあ、行きます」
リリアは立ち上がった。毒だなんだと言っていたが、どこも変化はない。痛くもないし、痺れてもいない。
「……はっ、冗談だろ……。あの女の言う通りってことかよ」
グレイが苛立たしげに舌打ちをした。
「おい、リリア」
グレイが後ろからリリアの手をつかんだ。振り返ったリリアは息を飲む。
グレイの青い瞳が、怒りの炎で真っ赤に染まっているように見えたからだ。
「おまえ、そうやって、後に残されるヤツのことを何も考えてねェってんなら、そりゃとんでもねえ偽善だ」
「偽善……?」
「信じちゃいなかったが、今のおまえを見てると、あの女の言ってたことがよくわかる」
「あの女って……」
「おまえは、何度、おまえの王子の心を殺した?」
リリアは戸惑いを浮かべて、視線をゆらめかせる。
「意味が、わかりません……」
「俺だって知らねェよ」
吐き捨てるように、グレイが舌打ちをした。
そして、睨み据えるように、青い瞳でリリアを射抜く。
「おまえ、どうしても生きたいって言っただろうが」
リリアは泣きそうな困り笑いをして、何も言わずに口を閉ざした。離されそうにない手を、じっと見つめる。
「うるさい人ですねぇ」
痺れを切らしたらしい男が懐に手を入れ、ピストルを取り出した。グレイに標準を合わせ、引き金に手をかける。
それを見たリリアは、とっさにグレイを庇おうと前に立った。
両手を広げた瞬間、するりと脇の下に腕が絡みついて、守るように引き寄せられる。
ふわりと体が浮き上がったのと同時に、銃声が響いた。