「よっと。さあ、着きましたよ」
突然地面に降ろされて、リリアは周囲の様子を見ることもなく、ふらふらとよろめいた。足が子鹿のように震える。
「っと、大丈夫ですか? あんた、けっこう脆いですね。面倒ごとはごめんですよ」
「う、すみ、ませ……ちょっと、気持ちわる……」
リリアは顔を真っ青に染めて、口もとを押さえた。当然と言えば当然だ。
雲の上を突き抜けそうな高さの山を、肩に担がれたまま疾走したのだ。
男が何度も何度も飛ぶようにジャンプするものだから、その度にリリアの胃の中はせり上がるようにして浮かび上がった。さらには、男の肩が胃に刺さるのだから堪らない。
「んー、あんまり時間ないんですけどねぇ。飲みもん買ってくるんで、ちょいと待っててください。いいですか? 一歩でも動いたら、どうなるか……それだけは覚えておいてくださいね」
最後だけグッと声を低くして、男はリリアを威嚇した。リリアは正直何でもよかった。動く気力なんてとっくの昔に削ぎ落とされている。
気持ち悪さに目を回しながら、死人のような顔でコクコクとうなずいた。
「じゃあ、好きなもんは?」
「なんでも……いいです……」
「ハア? なんでもいいわけないでしょう。あんたの、好きなもんは? って聞いてるんですよ」
リリアは口もとを押えたまま顔を上げた。男は不機嫌そうな顔をしていた。眉を寄せて、面倒くさそうにリリアを見ている。
「……えっと、じゃあ……リンゴジュース」
「はいはい、リンゴですね。良い子に待っててくださいよ」
それだけ言うと、男はくるりと体の向きを変えて走り去っていった。
一人になって、リリアはようやく一息つく。肺の中にあるモヤモヤした薄汚れた空気をめいっぱい吐き出して、背中を近くの建物の壁に預けた。
少しだけ目を閉じて、何度か深呼吸を繰り返して目を開ける。
山を、越えた。
どこにある山なのかもイマイチ分からなかったけれど、その向こう側には街があった。活気があって、楽しそうな街だ。
国境を越えたのだろうか。
リリアは国外追放になったのだから、あの国にはいられない。
となると、どこの国のものでもなくて、リリアの国との境目にある──それ自体が不可侵領域の、国境としての役割を持っている山。
「ステルス山脈……?」
死の山とも言われる山脈だ。人が越えるなんて夢のまた夢と言われるような、崖が連なった険しい山。
それを越えたということは、ココは隣の国ということになる。
リリアは自分がチラチラと見られていることに気がついた。少しだけ曖昧に笑って、顔をうつむかせる。
違う国の人に会ったことはほとんどない。
リリアの国は聖女を祭り上げ、聖女を中心に栄えてきた国だ。だから、聖女を奪われることを何より嫌う。
聖女の死よりも、聖女の生け捕りが、何よりも恐れるべきことだからだ。
聖女が生きている間は次の聖女は生まれない。
それが、リリアの国での常識だった。
いつしか国は、祝福の源である聖女の存在を他国に隠すようになり、あらゆる関わりを断った。
リリアの国は、鎖国国家だった。
リリアは少しだけ違和感を感じた。
どうして、自分はここにいるのだろう、と。
聖女という存在はある意味国家機密だ。なのに、リリアを他国に売るというのはソレをバラすようなものだ。
信頼されている、とは思えなかった。
だって、リリアは、嘘つき聖女だと、そう罵られたのだから。
何かが、噛み合っていない。
リリアはそう思った。
もしも、リリアが聖女のことを誰かに話してしまったら、国はどうするのだろうか。
まあ、話したとして、罪人の言葉を信じてもらえるとは思えないが。
「なーに、難しい顔してるんですか」
陽気な男の声に、リリアはパッと顔を上げる。片手に飲み物の入ったカップを持っていた男が、リリアにそれを差し出した。
「ありがとう、ございます」
「逃げなかったんですね。エラいエラい」
カップを受け取って、リリアは苦笑いする。
たとえ逃げたとして、リリアには行くところがないのだ。
この世界の、どこにも。
カップに口をつけて、コクリと飲み込む。疲れていたのか、染み渡るような甘さが心地よかった。
「顔色良くなりました?」
「あ……少し、落ち着きました」
「売られたっていうのに、あんたけっこう図太いですねぇ。ま、暴れられない分、こっちは楽ですけど」
リリアはカップを両手で持ったまま、うつむいた。
「あの、私は本当に、売られたんですか……?」
小さな声で、尋ねる。
「どうして、そう思うんですか?」
「……な、なんとなく」
そう答えると、沈黙が落ちた。
リリアはおそるおそる顔を上げる。不敵に、面白そうに、口端を上げて笑っている男がいた。太陽に雲がかかって、男の顔に陰が落ちる。
不気味な気配に、リリアの背筋にゾクリと悪寒が走る。
「捨てられたんすよ、あんたは」
リリアは言葉を飲み込むように、キュッと唇を引き結んだ。
「どん臭くて頭が悪いって聞いてたんですけどねぇ……」
「え……?」
「いんや、こっちの話です。とりあえず行きますか」
男が先を歩き出す。数歩進んで、うながすようにリリアを振り返った。リリアも慌ててその後ろについていく。
「どこに行くんですか?」
「だから言ったでしょう。ボスのところですよ、ボスの」
「ボスって……?」
「ウチのボスですよ。まァ、商売人みたいなもんです。俺はあんたを連れてくる役目を任されただけなんで」
そう言った男を、リリアはマジマジと見上げた。
「あの、そういえば、お名前……お名前、聞いてませんでした」
男は目を丸くしてリリアを見下ろした。面白そうに、バカにしたようにリリアを見て笑う。
「あんた、自分の立場分かってます?」
「名前を聞いてはダメなら、聞きません」
「ダメじゃないですけど。あァ、なるほど」
男は何か納得したようにうなずいては、おかしそうに笑って蛇のように目を細めた。
「シーカー・サヴァート。シーカーでいいですよ」
「シーカーさんですね。私はリリア。リリア・エスカーナです」
「知ってますよ。バカでどうしようもないお人好しのリリアサン、すよね」
「……え?」
ぽかんと口を開けて、リリアはシーカーを見上げた。
マヌケなその顔にニヤリと口端を上げて、男は企みを楽しむようにリリアを嘲笑った。
「俺からの、どうしようもないバカなあんたへの、とっておきのプレゼントですよ」
片目をつむって小首をかしげたシーカーは、目を瞬かせるリリアを置いて歩き出した。
「さぁて、人多いんで、はぐれないでくださいよ。迷子探しはゴメンですからね」
男のあとを追いながら街の中を歩いていたリリアは、やけに街の人たちから見られることに気がついた。
「あの、シーカーさん」
「なんすか」
「私、何か変ですか? すごく、見られている気がするんですが……」
「ああ、その目じゃないですかね」
「……目?」
リリアは自分の指先をまぶたの下に当てた。
シーカーが目線だけで後ろを歩いていたリリアを振り返る。
「こっちのほうじゃ、あまり見かけない色ですからね」
そうだったのかと、リリアは自分の紫色の瞳を思い浮かべた。リリアの国でも珍しい色だったが、異国ともなるとその数倍は珍しいらしい。
チラチラと向けられる視線を気にしないようにしながら、リリアは街の中を歩いていく。
やがて、シーカーが大きな広場にある、ひとつの建物の前で足を止めた。リリアも足を止めて、首を伸ばして建物を見上げる。
リリアの国のお城と似て非なるものだが、優美さを感じさせる巨大な建物。左右から階段が真ん中に向かって伸びている。
地上の入口はアーチ型をしたものが三つある。
そこから奥へ行けるようになっているらしい。
外付けの階段を上った先にある二階の入口は、空に突き抜けるように伸びている時計塔に繋がっているようだった。
「この街、色もカラフルでしたし、すごく綺麗ですね」
リリアは素直にそう思った。ここに来るまでに見た街並みは、緑、黄、赤、青、白の建物が綺麗に並んでいた。
「綺麗ですけど、ちゃんと街の周りには壁もあるんで、要塞としても安心ですよ」
そう言って、ニヤリと、シーカーが笑う。
「要塞……?」
「自治都市なんですよ、ここは。ボスがこだわって作った街なんで、いろいろと細かいんすよねぇ」
「自治都市って、何ですか?」
「あー、まァ、商人の街みたいなもんですよ。ウチは商業ギルドなんで。表向きは」
最後にやや不穏な言葉が聞こえた。
尋ねてもいいものかと悩むリリアに向かって、シーカーが顎で目の前の立派な建物を示す。
「まあ、ボスに会えばわかりますよ。あんたもココに住むんですから」
「……私、ここに住むんですか?」
リリアは目を丸くした。
売られたわりに、まともな扱いをされていると思っていたが、まさか住む権利まで与えられるとは。
「説明面倒なんで、とりあえず行きましょうか」
そう言って、地上のアーチ型の入口を通っていったシーカーの背中を、リリアは慌てて追いかけた。
中の造りも細かくて、リリアは物珍しさにキョロキョロと視線を飛ばす。聖女になってお城にはじめて入ったときと、同じ気持ちだ。
入り組んだ中をどう進んだのか、リリアたちはひとつの精緻な扉の前にいた。シーカーがドアノッカーを三度叩く。そして、返事がある前に扉を開いた。
「ボスー、戻りました」
「……帰ったか、シーカー」
皮の椅子に腰かけていた男が、顔を上げた。
ボス、なんて言っていたから渋い老人を想像していたが、『ボス』は、そんなリリアの期待を裏切るような若い男だった。
漆黒のクセのない髪が切りそろえられていて、ところどころツンツン立っている。
耳に付けられた赤い血のようなピアスが目に付いた。
威厳を感じさせる瞳には青の宝石が埋め込まれている。その透き通るような青の瞳が、ゆっくりとシーカーの後ろにいたリリアを見た。
「んで、そっちのが例の女か」
青の目に射抜かれて、リリアはハッとして腰を九十度に折り曲げた。
「り、リリア・エスカーナですっ」
リリアは声を上擦らせてそう答えた。
革の椅子に座っている男は、リリアの国の王太子にも負けず劣らずの、美丈夫だった。ただ、彼のほうが、勇ましさを感じる。
ピリピリと痺れるような大物の気配だ。全身の毛がぶわっと逆だっているような不思議な感覚が、リリアを襲った。
まるで、空気だけで威圧されているかのよう。
リリアの足が細かく震え出す。
「そう脅えんじゃねぇよ。取って食いやしないさ。俺はグレイ・ベアード。呼び方はなんでもいい。まぁ、他の奴らはボスって呼んでる」
リリアはただコクコクとうなずいた。
「ちょっとボスー、脅えてんじゃないですか」
「なんもしてねえよ」
「あんた、居るだけで威圧するんですから。もっと笑ってくださいよ」
「……無茶言うなっての」
大げさにため息をついた男、グレイは、立ち尽くしているリリアをチラリと見た。
「あー……、そこの、女……じゃなくて、リリア」
「は、はいっ」
リリアは体を震わせながら顔を上げた。グレイが人差し指をクイクイと曲げて、近づくように促す。
「こっち来い」
リリアは自分が食用動物になった気分だった。このまま腸を抉り取られて売られるのではないかと、そんな恐ろしい想像をした。
目の前の男は、それを顔色ひとつ変えずにやってしまいそうな怖さがあった。
おそるおそる近づくと、グレイが面倒くさそうに自分の髪をかき撫ぜる。
「なんもしねぇよ」
「す、すみませんっ。だって、何だか猛獣みたいな雰囲気がするので……」
「……怯えてるくせに正直だな、おい」
「すみません……」
リリアは小さな体をより一層小さくして頭を下げた。
「まァ、なんでもいい。それよりリリア」
「は、はいっ」
「何ができる?」
「は……い?」
何を聞かれたのかとリリアが首をかしげると、グレイは手に持っていた紙の束をトントンと軽く机に打ち付けてリリアを見た。
「だから、何ができるって聞いてる。シーカーから聞かなかったのか? この街に住むって」
「あ……、き、聞きました」
「ならさっさと答えろ。何ができる」
ジロリと睨まれる怖さに萎縮しながらも、リリアはグッと拳を握ってグレイを見た。
「あの、その前に、ひとつだけいいですか?」
「あァ? まあ、いい。言ってみろ」
「わ、私は、売られたんですか?」
グレイは青の瞳を細めて不敵に口端を上げた。
「だったらどうする」
「ど、どうもしません。何も、できませんので……。ただ、売られたのに、街に住んでいいというのが、不思議だったんです」
リリアは力なく笑った。
もっと酷い扱いを受けると思っていた。けれども、そんな様子はない。リリアの名前を聞いてくれるし、リリアのできることを聞いてくれる。
まるで、新しい住民を迎えているかのようだ。
「わ、私は、罪人として売られたんですよね? なら、どうして……」
「深い意味なんざねェよ」
リリアの言葉を遮って、グレイが挑戦的に笑みを深める。
「おまえがどういう経緯でここに来ることになったかなんざ、どうだっていい。ただ、俺たちは、例え灰にまみれたドブネズミだって、才能さえありゃあすくい上げる。貧民街の生まれだろうが、罪人だろうが、ソイツが心から生きたいと望むなら、手を伸ばしてやる。そうやって出来てんだよ、この街は」
リリアは口をつぐんだ。
「おまえにはキッチリ働いてもらうがな。それでチャラだ。人手不足なんだよ。オラ、何ができる?」
「え、あ……えぇと……」
リリアは迷った。これと言ってできることが思い浮かばなかったからだ。
女学院でしていたことは読み書きや国の歴史。
そしてそのまま聖女に選ばれたから、リリアは社会に出たことがなかった。
「えぇと、お、お針子、とか……?」
「あー、なるほどなァ、そっち系か。シーカー、服飾関係どうなってた?」
「いやー、たぶん人足りてると思いますよ。この間ボスが良い仕立て屋がいたとか言って、何人か引っ張って来たじゃないですか」
グレイは苦い顔をした。
「あ、あのっ、できることなら、なんでもやりますっ! ココに置いていただけるのならっ」
リリアは机に両手をついて、身を乗り出す勢いでそう言った。
「なんでも、ねぇ……」
「なら、あそこはどうですか? ボスが新しく作った酒場。看板娘が欲しいって言ってたすよ」
「酒場ねぇ……」
グレイは顎を撫で付けながら、上から下までリリアを眺めた。
「や、やりますっ、酒場でも墓場でも、なんでもっ」
「墓場ってあんた、死にに行く訳じゃないんだから」
シーカーがおかしそうに笑ったのを見て、リリアは少しだけ恥ずかしくなって一歩下がった。
「まァ、やらせてみるか……」
グレイのその一言で、リリアの判決が下される。
聖女から一変、罪人になり、そして酒場の看板娘になることが決まった。