『ダダッダッダダッ』
物々しさを感じる不快な音が、静かな部屋に鳴り響く。
「う……ん。なに? うるさいなぁ……」
もぞもぞと手を動かして、私は顔のすぐ横にあった携帯電話を引っつかみ、音を消す。そして再び目を閉じた。すぐに同じ音が鳴る。
「……うるさい」
ただの機械音なのに、心なしかさっきより迫力が増している気がする。
……というか、あれ?
私、アラームなんて、かけたっけ。今日は休日のはず。学校も休みだ。それに、この音……迫り来る暗黒を連想させる不気味な音。
「…………」
だんだんと、頭が冴えてくる。
鳴っていた音が止んだ。
そして、再び鳴り響く不穏な音。
「……ッ!?」
私は慌てて飛び起きて携帯に手を伸ばした。けれど勢いをつけすぎたのか、私の手は見事に携帯を弾き飛ばし、かわいいピンク色をした携帯はイノシシのような勢いのまま、出窓に飾られていた鉢植えにクリーンヒットをかます。
「ああああ!? 私のコレクション!」
なんてこった。床が土だらけだ。なによりも、もうすぐ咲くはずだった桔梗がめちゃくちゃだ。
「もう、もう、もうー!」
だれに向けてかもわからない苛立ちを吐き出しながら、私はベッドから降りて窓際へと寄る。
ああ、かわいそうな桔梗ちゃん。そして、今日の予定が決まった。掃除だ。床掃除、ならびに土の新調。ゆっくり休めもしない、なんとも残念な休日だ。
はぁ、とため息をついて、私の視線は土に埋もれているピンクの携帯をとらえた。
お、音が止んでいる……。
私はがっくりと床に膝をついて、呆然と携帯を見つめる。
着信、何回目だろう。
記憶にあるのは一回目、鬱陶しくて消した。二回目、気づいたら止まっていた。そして、三回目……。
私は、ただぼんやりと携帯をながめた。
『ダダッダッダダッ』
ヒッ、と体が震える。
おそるおそる、床に手を伸ばす。
土の中から暗黒の音を奏でる携帯を拾い上げ、そっと通話ボタンを押して耳にあてた。
「…………は、はい……もしもし」
「…………」
「……あ、あの?」
反応がない。これ幸いと切ってしまおうか。
そっと、耳から携帯を離したときだった。
「てめェ……舐めてんのか?」
地を這うような声。魔王の化身のようだ。
「いいいいえ、舐めてません! 土はばらまかれたままです!」
「は? なんの話だ。まあいい。今から来い」
「…………は?」
高速で目を瞬く。
「い、今から?」
「二度言わせんな」
「え、だって、今何時……」
部屋の時計に目をやって、絶句。
5時。
間違いない。5時だ。ちょっと薄暗い。朝の5時か。
「や、やだよ。だいたい5時ってなに? 早すぎるよ。非常識!」
「は? 普通だろ」
「普通じゃないから! 私まだ寝てたんだけど。それに……」
「あと十分以内な」
「えっ……な、ちょっと待……」
ブツリ。
通話が切れた。
「…………」
ギュゥゥと携帯電話を握りしめる。
おのれ、城之内冬馬。
私はチラッと、床に散らばった土を見つめた。
「……ああ、もう!」
両手で土をすくい、鉢の中に戻す。本当はもっと丁寧にしてあげたかったけど、しかたがない。苦い思いを抱きながら、私は適当にパーカーを羽織るとそのまま家を飛び出した。
私の家から冬馬の住む豪邸までは歩いて30分。爆走して10分ギリギリ。支度の時間をゼロにしても、間に合うかどうかわからない。
「もう、もう、もう〜っ!」
頭を掻きむしりたくなるような苛立ちを抱えて、私は朝焼けの空の中、冬馬の自宅に向かって走った。
そういえば、昔もこんなことがあったんだ。
そのときは、朝焼けじゃなくて夕焼けで、冬馬の名前も家の場所も知らず、ただ闇雲に走っていただけなんだけれど。
不思議な因果だ。
***
走り続けて約15分。
私の肺は限界を迎えていた。
起きて準備運動もなしに全力疾走なんて、だらけきった私の体には負担が大きすぎる。
「う……あと、すこし……」
もつれそうになる足をなんとか動かして、一息。
ようやく、ようやく、着いた。
豪邸。
その表現がぴったりだ。西洋風に飾り立てられた外観。いかにも金持ちって感じだ。
私は重々しい門の前に立つ。と、携帯が鳴った。着信音もちろん、悪の大王だ。
「……はい」
「入れ」
それだけ言って通話がとぎれた。門が、自動で内側に開く。
「…………」
おそらく監視カメラとかがあるのだろうけれど、いつも思う。こわい。タイミングがよすぎてこわい。私はおっかなびっくり足を進めた。
普通の家とは違う、気の遠くなりそうな、なっがーい庭。少しうらやましい。季節に合わせた花がきれいに整列している。
爆走したせいでにじみ出てきた汗を、パーカーの袖でぬぐう。暑いし、疲れたし、眠いし、いったいなにをしているのだろう、私は。
「ていうか、普通に考えてこんな時間に家に押しかけるなんて、迷惑でしょ」
と考えてから、気づく。
そうだった。この家の人たちは、活動時間が早いんだった。休みだろうとなんだろうと、朝の6時にはなにかしら行動しているとか、前に言っていた気がする。
お金持ちは時間を無駄にしないとか聞いたことあるけど、それだろうか。
とにもかくにも、私には考えられない生活スタイルだ。私は休みならお昼過ぎまで寝ていたい派だ。これから起こる疲労の一週間のために、寝溜めをするんだ。
入口の門をくぐってから数分後、私はやっとこさ豪邸の前にたどり着くことができた。すぐ近くまで来ると、よけいにデカい。首をそらして見上げなければ、てっぺんが見えない。
私は玄関の前で一呼吸おくと、人差し指をチャイムめがけて振り上げた。
「……おせェ」
指がチャイムに到達する前に、玄関があいた。
さらさらの黒髪に、凛々しくつり上がった目。無駄な肉のない上品な顔が、不機嫌そうに眉を寄せて玄関から顔を出した。
「と、冬馬……」
「10分」
「む、無理だよそんなの! ほんと最低! 信じらんない! このうんこ野郎!」
「おまっ……あいかわらず口調最悪だな」
「あんたに言われたくない!」
呆れたような顔をする冬馬を睨み据える。
こんな朝っぱらに呼び出すような男に、口調がどうとか言われたくない。
「おまえ、学校じゃ、庶民にはみえない品行方正な淑女、だもんな」
「そ、それは……そうしないと、あの学校じゃ生き延びられないんだから、しかたないじゃない」
そう言うと、冬馬はふんと鼻を鳴らした。
私と冬馬の通う学校、私立城之内学園。
学力、スポーツ、指導者、設備、なにをとっても文句のない学校。ただし、学費が馬鹿高い。庶民には到底縁のない学校である。
そして優雅なお金持ちは庶民を嫌う。嫌うっていうのは正しくないかもしれないけれど、とにかく自分たちとは毛色が違うと本能でわかるのか、距離をおかれる。そして目をつけられたら最後、それはそれは悲惨な末路をたどるという。考えただけでぞっとする。
だからこそ私は、なんとしても金持ちに馴染むべく、言葉遣いに気を使い、身なりも立ち振る舞いも気をつけている。勉強は常に上位。それが、特待生であるための条件だからだ。
学校での私、天塚結衣菜は、品行方正、礼儀正しく明るい、完璧な淑女となっている。おかげで学校に馴染めているし、まあ疲れるけど明るい未来のためだ。なにも文句はない。学校生活もそれなりに楽しい。
そう、……この男さえいなければ!
私はキッと目の前に立つ顔だけ男、城之内冬馬を見上げた。
「なんだ、その顔」
「別に。それでなんの用?」
「俺じゃなくて、親父がおまえに用があるんだと」
「……おじさまが?」
なんてこった。どうしてそれを早く言わない。寝巻きにパーカーなんていう、淑女にあるまじき格好で来てしまったじゃないか。
「ど、どうしよう冬馬! こんな浮浪者みたいな格好じゃおじさまに会えないよ!」
「わかってるっつーの。だから早めに呼んだんだろーが。いいから来い」
冬馬はアゴで家の中を示すと、少し大きく扉をあけて私をうながした。
「お、おじゃましまーす」
豪邸に足を踏み入れる。玄関で靴をぬいで、お客様用のこれまたふわっふわの豪勢なスリッパをはく。そして冬馬のあとを追った。
「つーかおまえ、なにその手」
「手?」
私は自分の手を見る。わお。手が土まみれ。そういえば、手づかみで土を触ってそのまま来たんだった。
「ああ……鉢植えが倒れちゃって」
「ふーん」
聞いといてそれか。嫌なヤツ。
「というか、おじさまなんの用なの?」
「知らね」
「えっ」
そこは聞いとけよ。本当に使えないヤツだな。私はじっとりと冬馬を見た。
「親父、なんでかおまえがお気に入りだからな」
「……そ、そう?」
「でなきゃ、わざわざ俺と合わせたりしねーだろ」
そうだった。
それが、私の運命を狂わせたんだった。
私立城之内学園。
なにを隠そう、冬馬のお父さん、城之内治仁が理事長を務める学園だ。
そして、私が無事に特待生として入学をしてしばらく経ったころ、理事長室に呼び出されて無理やり出会わされたんだ。この城之内冬馬と。
冬馬は私のひとつ上で、なんというか、「学園のわからないことはこの愚息に聞きなさい」ということだった。なんとまあ、ありがた迷惑。
しばらく興味なさそうにそっぽ向いていた冬馬が、おじさまに言われて気だるそうに私に視線を向けて、驚いたように目を見張った。そして、小さな声でつぶやいた。
「ゆいな……?」
と。
私の記憶も急速に呼び覚まされた。
悲劇のはじまりだった。
「ま、でも親父に引き合わされなくても、いずれ会う運命だっただろ」
そんな運命は嫌だ。
「俺たち、幼なじみ、だもんな?」
ニヤリと冬馬が笑う。
「…………違うし」
ぼそぼそと、小さくつぶやいた。
私には幼なじみがいた。
昔仲の良かった、トーマくん。
どこのだれかなんて知らない。
毎日つまらなそうにぼんやりと公園を眺めているのが気になって、声をかけた。
「一緒に遊ぼうよ」
と。
対するトーマくんの返事は「やだ」。
理由はなんと、馬鹿が移るから。
最初は意味がわからずぽかんとしていたけれど、意味を理解したら腹が立ってきて、ムキになってつかみかかって、逃げるトーマくんを鬼の形相で追い回した。
最終的に、ふたりで大きな木のそばに座りながら、トーマくんの難しい話を聞いた。
あんまりにも難しくてわからなかったから、私は木の棒で地面に絵を描きながら、わかったフリをして「ふーん」とうなずいていた。
「どうして公園を見てたの?」
と聞いたら、トーマくんは「別に」と答えた。
「友達いないの?」と聞いたら、トーマくんは顔を真っ赤にして怒った。きっと、図星だったからだろう。
だから私は、
「じゃあ、友達になろうよ」
と言ったのだ。
子どもとは恐ろしい生きものだ。無知は身を滅ぼすとはよく言ったものだ。
そして私は言ってしまったのだ、
「小さいころからの友達ってね、幼なじみって言うんだって」
と。
トーマくんは少し嬉しそうにした。そんな顔すると思わなかったから、私も嬉しかった。
それからたまに、公園で一緒に遊ぶようになった。たくさん話したし、たくさん喧嘩をした。なんといっても、トーマくんはやたらと難しい話をするから、私にはチンプンカンプンだったのだ。勉強嫌いの私に勉強の仕方を教えてくれたのもトーマくんだ。
だけどある日、トーマくんは突然公園に来なくなった。
何日も何日も待って、数週間が経ったころ、トーマくんはピカピカの黒い車に乗ってあわられた。
「もうココには来れない」
と、それだけを言って私の前から消えた。
たくさん泣いた。きっとあれは、私の初恋だったのだろう。
もう二度と、トーマくんには会えないのだと思っていた。
のに。
チラリ、視線をあげて冬馬を見る。
「なんだよ」
「……なんでもない」
あのトーマくんは、とんでもない俺様暴君になってしまっていた。いや、もとからその気配はあったけれど、なんか、いろいろと残念だ。顔はいいだけに余計残念だ。
「それにしても、あの結衣菜が淑女とは……」
「なに。悪い?」
「いや? 般若のような形相で俺をど突いてきた女が淑女とか、世の中はほんと、おもしろいよな」
冬馬は馬鹿にしたように笑った。
そう、これだ。冬馬はトーマくんであり、品行方正な私ではない、本当の私を知っている。私はなんとしても、今のイメージを死守したいのだ。
学校は問題を起こさず穏便に過ごしたい。私には夢があるのだから。退学とかになったら困る。とっっっても、困る。
「だれにも言わないって、約束でしょ」
「ああ。言わねえよ」
冬馬が、笑う。あざ笑うような、嫌な笑みだった。
「結衣菜が、俺の言うことを聞いてる間はな」
静かに、唇をかむ。
「ほんと、うんこ野郎ね」
「おまえの口の悪さも大概だろ」
「私はいいの」
「は?」
「私は庶民だし、卒業さえしてしまえば、今みたいな生活もなくなるし」
「…………」
冬馬は黙って目を細めた。
そして数泊ののち、口を開く。
「でも俺たち幼なじみだろ」
「は? それがなに?」
冬馬は小さく舌打ちをすると、大股で歩き出した。
「ちょ、待ってよ!」
何回か来たことあるといっても広い家だ。まだ構造を把握できていない。
「もう〜! ほんと、あんたって最低!」
先を行く背中に向かって叫ぶと、冬馬はチラリと視線を後ろにいる私に投げかけ、苛立ったように目を細める。
「この通路の右」
「え?」
「風呂」
「……は?」
風呂? 風呂がなんだ。まさかお風呂に入りたいと?
「おまえ手、汚ねえから」
「えっ、わ、私? や、やだよ。手なんか洗えばきれいになるって」
「めんどう」
「なにそれ」
なぜ手を洗うのがめんどうなんだ。この男の考えは理解できない。
「人の家のお風呂とか、なんか落ち着かないし」
「一流ホテルに来たと思えばいい」
「…………」
……く、言い返せないところがまたムカつく。たしかにこの豪邸なら、三つ星ホテルくらい立派なお風呂がありそうだけれど。
「で、でもやだ」
首を振り続けると、冬馬は疲れたようにため息をついた。
「おまえ、走ってきただろ」
「え? うん。うんこ冬馬が無茶振りするから」
うんこ、と言ったら冬馬は嫌そうに目を細めたけれど、そこには触れずに少し先にあるこれまた豪勢な扉アゴでを示した。
「汗かいただろ。髪も乱れてる。いいのか? 淑女がそんなんで」
カァッと顔が熱くなって、慌てて髪を整える。
「お、お風呂、お借りします……」
「おう」
それだけ言うと、冬馬は歩き出した。
私はさっき冬馬が示していた扉の前で止まり、少しだけ緊張しながら扉を開いた。
「し、失礼しまーす」
だれもいないことを確認して、ほっと胸をなでおろす。万が一おじさまと鉢合わせでもしたら、気まずいことこの上ない。
とりあえず広すぎる脱衣所に脱帽した。何人ここに入れるだろうか。十人は余裕だろうか。
次に浴槽の扉に手をかけて、おそるおそる開く。
「なっ……ひろっ!」
どう考えても家についているお風呂の広さではない。しかも、ヒノキ風呂だ。なんて贅沢な。それにしても……。
「ミスマッチすぎる」
家の造りは思いっきり西洋風なのに、お風呂ヒノキって、よくわからない。
まあ、細かいことは気にしてもしかたがない。おじさまの呼び出しってことは、もしかして私の素行に問題があって、その注意とかかもしれない。生活態度? 外見? 頭脳?
わからないが、とりあえず学園にいる女生徒たちのように上品にならなければ。私は体に髪に、隅々まで磨きをかけた。
そして、せっかくのヒノキ風呂を存分に堪能し、浴室から出る。脱衣所には、真新しい服が置かれていた。
「…………」
準備、よすぎじゃないか?
白の上品そうなワンピース。いかにもおじさまが好きそうな感じだ。いや、本当はどんなのが好きなのか全く知らないけれど、イメージだ。見た目ダンディなおじさまが好きだと嬉しい、私の勝手なイメージだ。
とりあえず袖を通す。ぴったりだった。
「ドライヤードライヤー、と」
探してみるけどない。しかたなく私は脱衣所から出た。
「上がったか」
「冬馬。待ってたの?」
「迷子になるとか喚くからな」
「こんな広すぎる家、覚えられないよ」
そもそも、覚える気もない。できれば私は、とっととこの男と縁を切りたいのだ。
深入りしたって、いいことなんてなにもない。
「ねぇ、ドライヤーないの?」
「ある。とりあえず俺の部屋」
言われるままに冬馬について行く。朝っぱらからなにをしているんだろう、本当に。
「ねぇ、おじさま怒ってた?」
「は? なんで」
「だって、私に用なんて……どう考えても学校生活のことでしょ」
むしろ、それ以外に接点がない。
「いや、違うんじゃね?」
「えっ」
「そこは公私混同しねえだろ。学校生活のことなら、理事長室に呼び出せばいい」
「えっ、じゃあなんで?」
「だから知らねえって」
本当に使えない。
「じゃあ、おじさま個人的に私に用があるってこと?」
「たぶんな」
なんてこった。個人的に用事? 全く心当たりがない。
冬馬の部屋について、なぜかいろいろ備えられていた用具で顔と髪を整える。淑女だなんて楽じゃない。でもあの学園の女の子たちは、みんなこういうことを当たり前のようにしているのだろう。
単純に、すごいと思う。そして努力家だ。私は嘘に塗れた努力しかできない。
適当にくつろいでいると、部屋がノックされた。冬馬が腰を上げて、扉を開けて応対する。
「親父が呼んでるってさ」
私が来たこと伝えていたのか。
私は戦場へと向かうような気持ちで、キュッと顎をあげた。背筋を伸ばして、優雅に歩く。
部屋を出て、おじさまの待つ応接室へと向かった。
私と冬馬が応接室に着いたときには、もうおじさまはいた。さあ、なにを言われるだろうか。
「やあ、結衣菜ちゃん、久しぶり。元気だった?」
「はい、お久しぶりです。理事長」
「やだなぁ、そんな他人行儀な。ここは学園じゃないんだから。まあ座って座って」
うながされて座る。もちろん、背すじはピシッと伸ばす。
「学校はどう?」
きたっ。やっぱり学校の話か。冬馬め。まったくあてにならない男だ。私は一緒となりに座る冬馬を見やって、おじさまに向き直る。
「とても楽しく過ごしていますよ」
「そっかそっか、ならよかった。なんでかうちの学校、特待生を入れてもみんな転校して行っちゃうんだよねぇ」
……そりゃあ、そうだろう。
「それであの、私に用とは?」
私は正面から斬り込んだ。おじさまはそうだそうだという顔をして、胸ポケットからなにかを取り出した。
「そうそう。これ、結衣菜ちゃんにあげようと思って」
おじさまが手にしているのは、紙切れ。なにかのチケットのようだ。
「結衣菜ちゃん、最近新しくできた植物園知ってる? そこの招待券もらったんだけど、僕は時間が取れそうもなくてね。結衣菜ちゃんなら、こういうの興味あるかなと思って」
そう言って、治仁おじさまは二枚のチケットを差し出してきた。
「え……ありがとうございます」
とりあえず受け取る。
私は要件を聞いたはずだったんだけど……。
頭の上に疑問符を浮かべていると、おじさまがスーツの袖をまくって、腕時計を見た。
「あ、じゃあ僕そろそろ仕事だから」
「えっ」
ま、まさか。
このためだけに、朝っぱらから呼び出した、と?
顔に出ていたのか、おじさまは眉をハの字に下げて子犬のような顔をした。
「ごめんね、結衣菜ちゃん。どうしても直接渡したくて、こんな時間になっちゃったんだ」
「いえ……おじさま、お忙しいですものね」
にこり、と学園用の淑女スマイルを作る。
「結衣菜ちゃんならそう言ってくれると思ってたよ。ああ、そうだ。せっかくだからごはんでも食べていきなよ」
「えっ? いえ、いいですいいです。どうかおかまいなく……」
お願いだから変なこと言わないでぇええ!
「ほら、冬馬。結衣菜ちゃんをエスコートしてあげなさい」
「はいはい」
疲れたようにソファから立ち上がった冬馬が、優雅な動作で私に手を差し出してくる。
「お手をどうぞ?」
顔と言動が妙に合っていて、カッと全身に熱が登る。
いらないと突っぱねたいところだけれど、おじさまが見ている手前、そうもいかない。私はゆっくりと冬馬の大きな手に、自分の手を重ねた。
「ありがとうございます……」
ニヤリ、冬馬が笑う。
こいつ、馬鹿にしてるな。
息子の行動が嬉しかったのか、ウンウンと満足そうにうなずいているおじさまに見送られながら、私たちは部屋をあとにした。
とりあえず冬馬の部屋に向かうこと数分。
私は見えてきた部屋に、身を隠すようにして飛び込んだ。扉が閉まり、私と冬馬は肩を並べたまましばらく沈黙した。
「……ねえ」
「あ?」
「用って、これだけ?」
「みたいだな」
「……いや、嬉しいよ? ここ、私が行きたかったところだし、すっごく嬉しいよ? でもっ!」
私は胃に溜まっていたモヤモヤを爆発させる。
「今じゃなくてよくないっ?」
冬馬はしばらく黙ったのち、悟った顔をして数回うなずくと、ポンポンと私の肩をたたいた。
「人生そんなもんだ」
その言葉に、私の中の堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
「私はあんたたちの下僕じゃなーーい!」
ブン、と両手を振り回して苛立ちをぶつける。
「うおっ!? 危ねえな」
「もういいっ、寝る!」
「……は?」
「冬馬出てって! お昼過ぎに起こして!」
「いや待て。寝るって俺の部屋でか? それは……マズいだろ……いろいろ……」
「変なことしたらアイアンクローするからね」
「いや、結衣菜の力じゃ大して痛くな……って、そういう問題じゃねえよ」
「なら口きかない」
ベッドに近づきながらそう言うと、冬馬が黙り込んだ。不思議に思って冬馬のほうに顔を向ける。冬馬は叱られた子どもみたいな、なんとも言えない表情をして突っ立っていた。
「えっ、ごめん。傷ついた? 冗談だよ、冗談」
「なんだよ、冗談かよ……」
冬馬が、ホッとしたように息を吐く。
不覚にも、胸の奥がキュンとした。
って、冬馬相手にキュンとするとかありえない。
「や、やっぱり客室にする!」
「いや、いいけど……本気で寝んの?」
「寝る」
「朝だぞ」
「朝から疲れたからもう夜と一緒」
「屁理屈だな」
おかしそうに笑う冬馬からふいと顔を背けた。
「もう朝飯できるけど、いいのか?」
「…………いる」
走ったからお腹すいたし、なにより。冬馬の家のご飯はとにかく豪勢なのだ。一流レストラン並だ。
私はのそのそと起き上がった。
「寝すぎても頭が馬鹿になるって言うしな。それ、行くか」
「……それ?」
冬馬の視線は、おじさまからもらったチケットに向いていた。
「え、冬馬と?」
「……なにか言いたそうだな」
「やだよ。ひとりで行きたい」
キッパリと断ると、冬馬はひくりと頬を引きつらせた。
「いいのか、言いふらしても」
「なっ……」
「俺はどっちでもいいけど?」
「……っ、あんたって、ほんと最低!」
冬馬がニヤリと笑う。
「結衣菜は俺の幼なじみだろ?」
「そういう問題じゃなーいっ!」
俺様暴君幼なじみとの憂鬱な日々
『小さいころからの友達ってね、幼なじみって言うんだって。ずっとずっと一緒にいられる、特別な存在なんだって』
『ずっと?』
『うん、ずっと』
『だからね、今日から私たち、幼なじみだよ。ずっとずーっと、一緒だよ!』