「誰ですか? あなたは」
クヴィスリン宰相の使いの男が、厳しい目でふわふわな髪の男を見た。男は切り立った岩壁の少し張り出ているところに、器用に立っている。
「はあ? それはこっちのセリフですけど。あんた、どこの誰ですか? 人の物に手を出すと、どうなるかわかってるんですかね」
「人の物……?」
リリアは目を瞬いた。さすがにこの状況で「人の物ってなんのことですか?」と言えるような鈍感力は持っていなかった。
リリアは震える人差し指で自分を示した。
「も、もしかして、その、物って、私のことですか?」
「そうですよ。物分りが良くてけっこう。あんた、捨てられたんすよ。この国に」
ニヤリと、リリアを見ていた男が笑う。そうして、懐に手を突っ込み、ペラリと一枚の紙を取り出してリリアたちに向かって見せる。
「はいこれ、契約書」
一瞬だけ見せつけただけで、男はすぐに契約書を懐にしまってしまった。
よく見えなかったけれど、本物だろうか?
まさか、この国が人身売買をしたとでもいうのか。リリアの人権なんてまるでない。いや、処刑も考えられたほどなのだから、強制労働としての罰なのかもしれない。仕方がないと言えばそうなのかもしれないが、まさか、国外追放が売られることだったとは。
リリアは目眩がしそうだった。気を失ってしまわなかったことを、褒めたいくらいだ。
リリアたちを見下ろしていた男は、チラリと視線をリリアの隣に立つ男に向けた。ニヤリと、意地の悪い顔をしながら。
「で? あんたはどこの誰なんすか? 場合によっちゃ、大問題になりますよ。だってあんた、その女が何か、分かってるんですよね? 誰の使いです? 王族、貴族、官僚……まぁ、どれでもいいですけどね。揺すりのネタになりそうなんで」
男のハシバミ色の瞳がギラリと光った。怪しく、でも楽しそうに光っている。まるで、獲物を見つけた猛獣のようだ。
赤い舌がのぞいて、堪えきれないかのように舌なめずりしていた。
クヴィスリン宰相の使いの男が、眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながら一歩身を引いた。
リリアはそれをしっかりと見ていた。やっぱり、クヴィスリン宰相に迷惑をかけるわけにはいかないと。
リリアは顔を上げて、崖にいる男を見る。目が合うと、男は少し眉を上げ、ニヤリと笑った。
そして、一気に岩壁から飛び降りてくると、リリアの目の前に立つ。
こうして見ると、細身だけれどリリアより頭一つ分背が高い。着ている服は高級とは言えなそうだが、身軽だ。ガチャガチャと鎧を纏った兵士たちよりよっぽど速く動けそう。
男はリリアに手を伸ばすと、そのままひょいと抱き上げた。
「よいしょっと」
「きゃっ、な、なんですか?」
いきなり肩に担がれて、リリアは目を白黒させた。男のふわふわの髪が、リリアの頬をくすぐる。
「しっかりつかまっててくださいね。舌噛んでも知らないんで」
「……え?」
リリアが首を傾けた次の瞬間。
体がふわりと浮かんだような気がした。
「きゃ、きゃあぁぁぁ!?」
男はリリアを抱えたまま、ほとんど岩と変わりない山をかけ登っていた。崖のような足の引っ掛かりがほとんど無いところを、身軽に飛ぶように登っていく。一歩間違えたら、地上に真っ逆さまだ。
「な、なにっ、なんですか、これぇ!」
リリアは半べそになりながら訴えた。
「ウィング。身体強化ですよ。知らないんですか?」
「し、知りませんっ」
リリアは首を振って、振り落とされないように強く男の首にしがみつく。
「そうそう、良い子にしてたら落としたりしないんで。このまま山超えるんで、よっと」
「わ、私、殺されるんですか?」
「はははっ、やだなぁ、殺したりしませんよ。あんたは大事な、取り引き済みの品なんで」
「じゃ、じゃあ、どこに連れて行かれるんですか?」
「どこって……」
男は横目にリリアを見て、ニヤリと笑う。
「ボスのところですよ」
「よっと。さあ、着きましたよ」
突然地面に降ろされて、リリアは周囲の様子を見ることもなく、ふらふらとよろめいた。足が子鹿のように震える。
「っと、大丈夫ですか? あんた、けっこう脆いですね。面倒ごとはごめんですよ」
「う、すみ、ませ……ちょっと、気持ちわる……」
リリアは顔を真っ青に染めて、口もとを押さえた。当然と言えば当然だ。
雲の上を突き抜けそうな高さの山を、肩に担がれたまま疾走したのだ。
男が何度も何度も飛ぶようにジャンプするものだから、その度にリリアの胃の中はせり上がるようにして浮かび上がった。さらには、男の肩が胃に刺さるのだから堪らない。
「んー、あんまり時間ないんですけどねぇ。飲みもん買ってくるんで、ちょいと待っててください。いいですか? 一歩でも動いたら、どうなるか……それだけは覚えておいてくださいね」
最後だけグッと声を低くして、男はリリアを威嚇した。リリアは正直何でもよかった。動く気力なんてとっくの昔に削ぎ落とされている。
気持ち悪さに目を回しながら、死人のような顔でコクコクとうなずいた。
「じゃあ、好きなもんは?」
「なんでも……いいです……」
「ハア? なんでもいいわけないでしょう。あんたの、好きなもんは? って聞いてるんですよ」
リリアは口もとを押えたまま顔を上げた。男は不機嫌そうな顔をしていた。眉を寄せて、面倒くさそうにリリアを見ている。
「……えっと、じゃあ……リンゴジュース」
「はいはい、リンゴですね。良い子に待っててくださいよ」
それだけ言うと、男はくるりと体の向きを変えて走り去っていった。
一人になって、リリアはようやく一息つく。肺の中にあるモヤモヤした薄汚れた空気をめいっぱい吐き出して、背中を近くの建物の壁に預けた。
少しだけ目を閉じて、何度か深呼吸を繰り返して目を開ける。
山を、越えた。
どこにある山なのかもイマイチ分からなかったけれど、その向こう側には街があった。活気があって、楽しそうな街だ。
国境を越えたのだろうか。リリアは国外追放になったのだから、あの国にはいられない。
となると、どこの国のものでもなくて、リリアの国との境目にある──それ自体が不可侵領域の、国境としての役割を持っている山。
「ステルス山脈……?」
死の山とも言われる山脈だ。人が越えるなんて夢のまた夢と言われるような、崖が連なった険しい山。
それを越えたということは、ココは隣の国ということになる。
リリアは自分がチラチラと見られていることに気がついた。少しだけ曖昧に笑って、顔をうつむかせる。
違う国の人に会ったことはほとんどない。
リリアの国は聖女を祭り上げ、聖女を中心に栄えてきた国だ。だから、聖女を奪われることを何より嫌う。聖女の死よりも、聖女の生け捕りが、何よりも恐れるべきことだからだ。
聖女が生きている間は次の聖女は生まれない。
それが、リリアの国での常識だった。
いつしか国は、祝福の源である聖女の存在を他国に隠すようになり、あらゆる関わりを断った。リリアの国は、鎖国国家だった。
リリアは少しだけ違和感を感じた。
どうして、自分はここにいるのだろう、と。
聖女という存在はある意味国家機密だ。なのに、リリアを他国に売るというのはソレをバラすようなものだ。
信頼されている、とは思えなかった。
だって、リリアは、嘘つき聖女だと、そう罵られたのだから。
何かが、噛み合っていない。
リリアはそう思った。
もしも、リリアが聖女のことを誰かに話してしまったら、国はどうするのだろうか。
まあ、話したとして、罪人の言葉を信じてもらえるとは思えないが。
「なーに、難しい顔してるんですか」
陽気な男の声に、リリアはパッと顔を上げる。片手に飲み物の入ったカップを持っていた男が、リリアにそれを差し出した。
「ありがとう、ございます」
「逃げなかったんですね。エラいエラい」
カップを受け取って、リリアは苦笑いする。
たとえ逃げたとして、リリアには行くところがないのだ。この世界の、どこにも。
カップに口をつけて、コクリと飲み込む。疲れていたのか、染み渡るような甘さが心地よかった。
「顔色良くなりました?」
「あ……少し、落ち着きました」
「売られたっていうのに、あんたけっこう図太いですねぇ。ま、暴れられない分、こっちは楽ですけど」
リリアはカップを両手で持ったまま、うつむいた。
「あの、私は本当に、売られたんですか……?」
小さな声で、尋ねる。
「どうして、そう思うんですか?」
「……な、なんとなく」
そう答えると、沈黙が落ちた。
リリアはおそるおそる顔を上げる。不敵に、面白そうに、口端を上げて笑っている男がいた。太陽に雲がかかって、男の顔に陰が落ちる。不気味な気配にリリアの背筋がゾクリとした。
「捨てられたんすよ、あんたは」
リリアは言葉を飲み込むように、キュッと唇を引き結んだ。
「どん臭くて頭が悪いって聞いてたんですけどねぇ……」
「え……?」
「いんや、こっちの話です。とりあえず行きますか」
男が先を歩き出す。数歩進んで、促すようにリリアを振り返った。リリアも慌ててその後ろについていく。
「どこに行くんですか?」
「だから言ったでしょう。ボスのところですよ、ボスの」
「ボスって……?」
「ウチのボスですよ。まァ、商売人みたいなもんです。俺はあんたを連れてくる役目を任されただけなんで」
そう言った男を、リリアはマジマジと見上げた。
「あの、そういえば、お名前……お名前、聞いてませんでした」
男は目を丸くしてリリアを見下ろした。面白そうに、バカにしたようにリリアを見て笑う。
「あんた、自分の立場分かってます?」
「名前を聞いてはダメなら、聞きません」
「ダメじゃないですけど。あァ、なるほど」
男は何か納得したようにうなずいては、おかしそうに笑って蛇のように目を細めた。
「シーカー・サヴァート。シーカーでいいですよ」
「シーカーさんですね。私はリリア。リリア・エスカーナです」
「知ってますよ。バカでどうしようもないお人好しのリリアサン、すよね」
「……え?」
ぽかんと口を開けて、リリアはシーカーを見上げた。
マヌケなその顔にニヤリと口端を上げて、男は企みを楽しむようにリリアを嘲笑った。
「俺からの、どうしようもないバカなあんたへの、とっておきのプレゼントですよ」
片目をつむって小首をかしげたシーカーは、目を瞬かせるリリアを置いて歩き出した。
「さぁて、人多いんではぐれないでくださいよ。迷子探しはゴメンですからね」