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17

 何が起きたのかわからない。

 目の前に、白いシャツが広がっている。
 リリアの髪を梳くように撫でる右手。硬い胸板に押し付けられて、ちょっと鼻をぶつけた。
 耳元では、「はぁ」と、安堵のため息にしてはやけに熱のこもった吐息が聞こえた。

 グレイの爽やかな香りが今までで一番濃く香る。

 あまりの距離の近さに、リリアの頭の中はショートした。バチンッ! と、聞こえもしない音が聞こえたのは、幻聴だろう。

 包み込むように、動きを全て拘束するみたいに、男の人に抱きしめられられている。
 それを理解した瞬間、心臓がドッドッドッ、とありえない速度でリズムを刻み出した。

 落ち着けようと思っても、ちっとも上手くいってくれない。リリアの言うことなど知らないと言いたげに、心臓は自分勝手に暴れ回っては、リリアの体の熱を上げていく。

 この心臓の音も。体の熱も。全部触れられたところから伝わってしまうんじゃないか。

 そんな心配が頭をよぎった。じっとりと肌が汗ばんでいく。

 リリアは固まったまま、目玉だけを左右に揺らす。無意識に逃げる場所を探してみたけれど、そんなものはどこにもなかった。

 ベッドに乗り上げたグレイの両腕が、しっかりとリリアの体を抱き込んでいる。

 スリっと頭に頬を押し付けられて、リリアは悲鳴をあげそうになった。

 怒っていたのに。怒っているように見えたのに。グレイは宝物を包むように優しくリリアに触れている。ふわりと、優しいのに力強い腕の中で、リリアは破裂しそうな自分の心臓を必死に抱え込む。

「リリア……」

 鼓膜を直接揺らすくらい近くで、吐息混じりの声が響く。

「ぼ、ぼす、あの……は、離れ……」
「怪我は」
「え、あ、ありま、せん」

 さりげなく遮られた気がして、リリアはもう一度、喉の奥からか細い声を振り絞る。

「あ、の、離れ、て、ください……」
「……」

 返ってきたのは沈黙だった。
 警戒したウサギのように固まっているリリアの背中を、あやすように大きな手がそっとリズムを刻む。

「別に取って食いやしねェよ。そう警戒すんな」
「だ、だって……心臓が……変、です……」

 リリアはもごもごと口の中で反論をした。

「ほぉ?」

 少し弾んだ、楽しそうな声が、リリアの耳を撫でた。

「どう変なんだ?」
「なんか、もう、わかりません……息が、苦しい」

 息をすればしただけ、爽やかな香りが広がる。肺いっぱいに満たされていく。爽やかで。でも少しだけ甘くて。落ち着く香りが。

 吐き出す息さえも、グレイの香りに変わってしまうんじゃないかと思うほど。
 ならばと息を止めてみるけど、やっぱり苦しいだけだ。

「おまえ、耳まで赤くなってんぞ」

 サラリと髪を耳にかけられる。
 指先が耳に触れて、リリアの心臓はヒュッと縮み上がった。ぐるぐると目を回しながら、距離を取ろうと身動ぎする。

「ぼ、ボスっ、な、なに、なんの御用でしょうかっ?」
「あァ? 顔見に来ただけだ」
「そ、そうなんですね。えっと、どこも怪我は無いですし、元気ですよ」
「ふぅん」
「えっと、えっと……」

 会話がなくなって、宥めるように優しく背中を叩く手のひらに押されるように、リリアはそっと、額をグレイの肩に押し付けた。
 手負いの獣がようやく気を許したみたいに、リリアは深く息を吐いて体の力を抜いた。

「ボスは……?」
「ん?」
「怪我、大丈夫ですか? どこか、痛いところとか」
「ばァか。ねェよ。怪我なんて、どこにも」
「……なら、よかった」
「……」

 リリアはほっと息を吐いた。
 顔を押し付けたまま、目を閉じる。
 髪を梳くように撫でる手の感触に集中する。だんだんと、眠くなってくるような気がした。

「おまえは……」

 ぼんやりとした頭に、声が響く。
 どこか虚ろで、独り言のようにも思えた。
 けれども、確かな怒りと激情が含まれている。

「自分の命に、興味も関心もないんだな」

 リリアは顔を上げた。
 黙ったまま、リリアをじっと見下ろしている海のような双眸を見つめる。
 言葉なく、視線を交わした。
 何を言っていいのかもわからなかったし、グレイも何かを言う気配がなかった。

 ただ、静かな沈黙が部屋を満たす。

 居心地が悪いわけではなかった。
 その沈黙に、何か意味が含まれているような気がして。

 リリアは音のない声から、必至に言葉を手繰り寄せようとする。

 けれどもやっぱりわからなくて、眉を下げて困ったように微笑んだ。
 グレイが青い瞳を眇める。
 リリアの頬に、ゴツゴツした硬い手が触れた。スルリと、手の甲で頬を撫でていく。

「おまえみたいな鈍いバカは、ハッキリ言っとかねェとわからねえからな」

 真っ直ぐに注がれた視線。そらすことは許さないという確固たる意志を感じた。

「俺は、おまえが死んだら困る」

 リリアの心臓が小さく跳ね上がった。
 もう十分すぎるほど暴れ回っていたというのに、まだまだ暴れ足りないらしい。

「理由はわかるか?」
「え、と……。契約、したから、ですか」

 かすれた、喉から絞り出した声で、リリアは尋ねる。

「ばァか」

 青い瞳が、かすかに細くなる。獲物を見るみたいに。
 薄い唇が、ゆっくりとつり上がる。大胆不敵に、獲物を奪い取るみたいに。

「惚れてんだよ、おまえに」


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