リリアは大きく目を見開いた。そうして、たった今言われた言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。
(惚れている……私に……。ボスが?)
青い、透き通るような瞳が、真剣な眼差しでリリアを見つめている。
今は昼時だというのに、しっとりとした、夜の夕闇のような静けさが部屋の中にはあった。グレイはそれ以上何も言葉はせず、リリアの動向をじっと見守っている。
何か言わなければと思うのに、何を言ったらいいのかわからない。
口に出すべき言葉を何度も考えて、そうして。
リリアはグレイと視線を合わせたまま、乾いた唇を舌で濡らし、そっと口を開いた。
声は、かすかに震えてしまっていた。
「え、と……。じょ、冗談、ですか……?」
グレイの形のいい眉がピクリと動いた。
青い瞳は細められて、いつもよりもいっそう鋭くなる。
リリアは自分を突き刺すような、刃のごときグレイの瞳に耐えきれず、ヘラりと笑って、顔をうつむかせようとした。その目から逃げようとしたのだ。恋焦がれるような熱に浮かされた瞳からも、不快感をあらわにする冷たい海のような瞳からも。
だが、その瞬間。
リリアの左右の頬に、大きな手のひらが触れる。両手で頬を挟まれて、グイッと、無理やり上を向かされた。
鼻先が触れそうなほど近くに、顔がある。作り物みたいに、綺麗な顔が。
「ゃ……ボス……」
「ヘラヘラ笑って誤魔化そうったって、そうはいかねェんだよ」
怒ってる。
リリアは本能的にそう思った。
反射的に身を引こうとするが、がっしりとリリアの顔を押さえつけているグレイの手は、そうやすやすと外れそうにない。
「無理やり解らせたほうがいいか? あァ?」
グレイが顔をわずかに右に傾けて、目を細める。
青い瞳の中に、燃えるような熱情が灯っていた。ゆらゆらと妖しく揺らめいて、リリアの思考を絡めとる。ハッ、と、リリアは息を飲んだ。海に溺れた鳥のように、上手く息ができない。
二人の距離が、ほんの少し、縮まる。
唇と唇が重なる、手前。
互いの吐息が触れ合うくらい近い距離で、グレイがジッと、リリアを見た。
「嫌がらねェのか」
「……っ」
青い瞳が、つっと細くなる。
「本当にしちまうぞ。キス」
かぁっとリリアの顔に熱が上った。
できたのは、ただ、小さく首を横に振ることだけ。
少しの沈黙のあと、ふっと、吐息だけで笑った気配がした。
ほんのわずかに空いていた距離が、ゼロになる。
唇を、少しだけ外れた場所。頬と唇の境目に、グレイの薄い唇が触れていた。
そのまま滑るように唇は耳に流れて、リリアの頬を挟んでいた手は、抱き込むようにリリアの頭の後ろに回っていた。硬い左腕がリリアの頭を抱え、小さな耳のそばでは笑うような吐息が響く。あまりの近さに、リリアは目を回した。
ふわりと、爽やかな香りが強く鼻をくすぐる。
「ばァか。しねェよ。無理やりなんざ」
「……はっ……ボス……」
ようやく、リリアは呼吸をした。
息を止めていたことも忘れてしまうくらい、青い瞳に吸い込まれていた。とろりとした、溶けそうな甘さの中に、揺るぎない確固たる意志を宿す瞳。リリアにはあまりにも、魅力的に見えた。
強く、キラキラと輝く、宝石のようで。
リリアの頭を抱き込んでいないグレイの右手が、リリアの髪をそっと耳にかけた。
「すぐにどうこうなろうなんて、思っちゃいねェさ」
耳元で、くつくつと笑うような声が響く。
鼓膜に直接息を吹きかけられているみたいで、落ち着かない。
「けどなぁ……」
がぶりと耳に噛み付かれた。
リリアはビクリと体を震わせ、食われかけのウサギのように固まって獣の気配をうかがう。
「逃げられると思うなよ」
嘲笑うような声がかすめていった。
心臓が、爆発を起こしたかのように、うるさく響いている。
今起きた一瞬の出来事を、消化しきれない。
「ぼ、すは……」
「あ?」
「わ、私が、すき、なんですか……?」
「だからそう言ってんだろ」
リリアは戸惑う瞳の中で、必死に答えを探す。
「そ、それは……どういう意味の、すき、ですか……?」
「あァ? 惚れてるっつただろ」
「え、と。それは……友だちとかとは、違います、よね。えっと、だから……」
しどろもどろにリリアは言葉を探していく。
上手く伝えられないのがもどかしい。
「……おまえ……まさか、キスも知らねェとか言わねェよな?」
「そ、それは知ってます。昔、おとぎ話とかで読みました。死の眠りについたお姫様を目覚めさせる、とかで……」
「……おい、なんか違ェ……」
はぁーっと、深いため息がリリアの耳元で響いた。
身を硬くするリリアの体に、グレイの体重が一気にのしかかる。
潰れそうになりながら、後ろ向きにベッドへ倒れ込む。二人分の重みを受けて、ふわりと布団が羽根のように膨らんで舞った。
「ばァか」
「ぼ、ボス、重いですっ」
「ほんとに食っちまうぞ」
グレイはリリアの手を取り、見せつけるかのごとく、がぶりと指先に歯を立てた。
「おまえ、男と女の恋愛も知らねェのか」
リリアは顔を真っ赤に染め上げて、不安げに瞳を揺らす。
「し、知ってます。恋愛小説とか、読んでましたし……」
「ほぉ?」
「で、でも、したことはない……です」
消えそうな声で、小さく呟いた。
「ずっと、女学院にいて。聖女に選ばれてから、外に出て、殿下……。えっと、王子様や、他の人に会いました」
「……おまえ、まさか男に会うの、それがはじめてだったのか?」
「いえ、パーティーがありました。そんな大きなものじゃなかったですけど……」
女学院がある場所と、普通の街は少し距離があった。それが、年に二回、いくつかの学校が集まって合同のパーティーを開く。
けれども、たったそれだけだ。
恋愛なんて、夢のまた夢。
特定の誰かに、そんな気持ちを抱いたこともない。
胸がドキドキして、落ち着かなくなる気持ちなんて。
抱いたことなんてない、はずなのに。
リリアはあの毒殺事件のパーティーでのことを思い出す。
キュッと唇を引き結んで、グレイを見た。
「ぼ、ボスは、私をどんな風に好きなんですか?」
「は?」
「えっと、どんな気持ちなのかなぁって……」
リリアを見下ろしていたグレイが、面白がるように笑みを深めた。
「だから言っただろ。おまえに死んでほしくねェと思うんだよ」
「そ、そうなんですね」
「他にもいろいろあるが、何が聞きてェんだ?」
「……え?」
「独占したい、甘やかしたい、隠したい、見せびらかしたい、食いたい、めちゃくちゃにしたい、泣かせたい」
リリアはぶわっと顔を赤く染め上げて、もういいとばかりに首を振る。
止まらない言葉を押さえようと、グレイの口に手を押し付けた。ニヤリと笑った獣が、グイッとリリアの手をつかむ。
ドキンッ、と、リリアの心臓が跳ね上がった。
「で? 好きはわかりそうか?」
「え、あ……わ、かりま、せん……」
グレイが黙って目を細めた。
「でも、えっと……」
「なんだ」
「……あ、あのとき。パーティーでボスに手を掴まれたとき。私は……すぐに手を振り払って、あの人のところに行かなきゃいけなかったのに……。なのに……」
泣きそうに眉を下げて、リリアは苦笑する。
どうしようもない自分を、叱ってほしい気持ちだった。
「私は……。ボスと一緒に生きたいって、そう、思ってしまったんです……」
リリアは小さな罪を打ち明けるように、震えた声で口にする。
それに息を飲んで固まったのはグレイのほうだ。
油断していたところに、右側から顔面を殴りつけられたような衝撃だった。
「あー……リリア」
「は、はいっ」
リリアに覆いかぶさったまま、グレイは親指でリリアの唇をなぞる。
瞳にめいっぱいの情欲を含んで、リリアを見下ろした。
「キスしていいか?」
リリアは息を飲んだ。
大きな瞳に薄い膜を張って、キョロキョロと落ち着かない様子で視線をさまよわせて、やがて、小さくうなずいた。
うなずいているのかも怪しいかすかな動きだったけれども、グレイはニヤリと口端を上げて笑う。
「好きがわからないんじゃねェのか」
「え、と。わからない、ですけど……触られるのを、嫌だとは、思いません。それではダメですか?」
じっと、おそるおそる問いかけるように、リリアはグレイの顔を見上げた。
グレイは自分の黒い髪を掻き上げ、苦笑するように笑う。
「ダメじゃねェけどよ」
そうして、青い双眸でリリアを見下ろして、少しずつ体を倒す。
唇が触れ合う直前で、グレイは咎めるように目を細めた。
「他の奴にはすんなよ、リリア」
うなずこうとしたときには、もう、奪うように唇が触れ合っていた。
自分のものではない柔らかさに驚いて、反射的に逃れようとする。けれども、すぐに大きな手がリリアの頭を押さえつけて、落ち着かせるように優しく撫でていく。
かすかな吐息が唇の隙間から溢れていった。
体の熱が上がって、頭にぼんやりと霧がかかっていく。
もっと、もっと。
そう、貪るように食いつかれて、リリアは首を仰け反らせながら拒絶した。
「ん……ゃ、ぼす……」
トントンと、グレイの胸元を弱々しく叩くと、ハッとしたように唇が離れていった。リリアは必死になって、足らない酸素を吸い込んだ。
気まずそうに頭の後ろをかいたグレイがリリアを見る。
「あー、悪い。理性飛びかけた。大丈夫か?」