18

 リリアは目を見開いて、目の前にある透き通るような青い瞳を見つめた。
 すぐに、戸惑うように紫の瞳を揺らめかせる。

「……え。な、に……。じょ、冗談、ですか……?」

 冗談なんかではないと、その瞳を見ればわかっていた。獲物に食らいつく前のような、興奮と、期待と、甘い蜜を宿した瞳。
 とろりとした色気をにじませて、リリアを見ている。

 それでも、何かの聞き間違いかもしれない。からかっているのかもしれない。

 そんな一欠片の思いを頭の隅に置いて、リリアはへらりと笑って青い瞳から逃れようと顔をうつむかせようとした。

 その瞬間、リリアの頬の左右に大きな手のひらが触れる。両手で頬を挟まれて、グイッと、無理やり上を向かされた。

 鼻先が触れそうなほど近くに、顔がある。作り物みたいに、綺麗な顔が。

「ゃ……ボス……」
「ヘラヘラ笑って誤魔化そうったって、そうはいかねェんだよ」

 怒ってる。
 リリアは本能的にそう思った。
 思わず逃げ腰になるけれども、がっしりと顔を押さえつけている手は外れそうにない。

「無理やり解らせたほうがいいか? あァ?」

 グレイが顔をわずかに傾けて、目を細める。

 青い瞳の中に、燃えるような熱情が灯っていた。ゆらゆらと揺らめいて、リリアの思考を絡めとる。

 距離が、少し、縮まる。

 唇と唇が重なる、少し手前。
 吐息が触れ合う距離で、グレイがジッとリリアを見た。

「嫌がらねェのか」
「……っ」

 青い瞳が、つっと細くなる。

「本当にしちまうぞ。キス」

 かぁっとリリアの顔に熱が上った。
 できたのは、ただ、小さく首を振ることだけ。

 ふっと、吐息だけで笑った気配がした。
 ほんのわずかに空いていた距離が、ゼロになる。

 唇を、少しだけ外れた場所。頬と唇の境目に、グレイの薄い唇が触れていた。
 そのまま滑るように唇は耳に流れて、リリアの頬を挟んでいた手は、抱き込むようにリリアの頭の後ろに回っていた。

「ばァか。しねェよ。無理やりなんざ」
「……はっ……ボス……」

 ようやく、リリアは呼吸をした。
 息を止めていたことにも気づかないほど、青い瞳に吸い込まれていた。

 リリアの頭を抱き込んでいないグレイの右手が、リリアの髪をそっと耳にかけた。

「すぐにどうこうなろうなんて、思っちゃいねェさ」

 耳元で、くつくつと笑うような声が響く。
 鼓膜に直接息を吹きかけられているみたいで、落ち着かない。

「けどなぁ……」

 がぶりと耳に噛み付かれた。
 リリアはビクリと体を震わせ、食われかけのウサギのように固まって獣の気配をうかがう。

 
「逃げられると思うなよ」
 

 嘲笑うような声がかすめていった。

 心臓が、爆発を起こしたかのように、うるさく響いている。
 今起きた一瞬の出来事を、消化しきれない。

「ぼ、すは……」
「あ?」
「わ、私が、すき、なんですか……?」
「だからそう言ってんだろ」

 リリアは戸惑う瞳の中で、必死に答えを探す。

「そ、それは……どういう意味の、すき、ですか……?」
「あァ? 惚れてるっつただろ」
「え、と。それは……友だちとかとは、違います、よね。えっと、だから……」

 しどろもどろにリリアは言葉を探していく。
 上手く伝えられないのがもどかしい。

「……おまえ……まさか、キスも知らねェとか言わねェよな?」
「そ、それは知ってます。昔、おとぎ話とかで読みました。死の眠りについたお姫様を目覚めさせる、とかで……」
「……おい、なんか違ェ……」

 はぁーっと、深いため息がリリアの耳元で響いた。

 身を硬くするリリアの体に、グレイの体重が一気にのしかかる。
 潰れそうになりながら、後ろ向きにベッドに倒れ込む。重みを受けて、ふわりと布団が羽根のように膨らんで舞った。

「ばァか」
「ぼ、ボス、重いですっ」
「ほんとに食っちまうぞ」

 手を取られて、見せつけるようにがぶりと歯を立てられた。

「おまえ、男と女の恋愛も知らねェのか」

 リリアは顔を真っ赤に染めて、不安げに瞳を揺らした。

「し、知ってます。恋愛小説とか、読んでましたし……」
「ほぉ?」
「で、でも、したことはないです」

 消えそうな声で、小さく呟いた。

「ずっと、女学院にいて、聖女に選ばれてから、外に出て、殿下……えっと、王子様や、他の人に会いました」
「……おまえ、まさか男に会うのそれが初めてだったのか?」
「いえ、パーティーがありました。そんな大きなものじゃなかったですけど……」

 女学院がある場所と、普通の街は少し距離があった。それが、年に二回、いくつの学校が集まって合同のパーティーを開く。

 けれども、たったそれだけだ。
 恋愛なんて、夢のまた夢。

 特定の誰かに、そんな気持ちを抱いたこともない。

 胸がドキドキして、落ち着かなくなる気持ちなんて。

 抱いたことなんてない、はずなのに。

 リリアはあの毒殺事件のパーティーでのことを思い出す。

 キュッと唇を引き結んで、グレイを見た。

「ぼ、ボスは、私をどんな風に好きなんですか?」
「は?」
「えっと、どんな気持ちなのかなぁって……」

 リリアを見下ろしていたグレイが、面白がるように笑みを深めた。

「だから言っただろ。おまえに死んでほしくねェと思うんだよ」
「そ、そうですか」
「他にもいろいろあるが、何が聞きてェんだ?」
「……え?」
「独占したい、甘やかしたい、隠したい、見せびらかしたい、食いたい、めちゃくちゃにしたい、泣かせたい」

 リリアはぶわっと顔を赤く染め上げて、もういいとばかりに首を振る。
 止まらない言葉を押さえようと、グレイの口に手を押し付けた。ニヤリと笑った獣が、グイッとリリアの手をつかむ。

 ドキンッ、と、リリアの心臓が跳ね上がった。

「で? 好きはわかりそうか?」
「え、あ……わ、かりま、せん……」

 グレイが黙って目を細めた。

「でも、えっと……」
「なんだ」
「……あ、あのとき。パーティーでボスに手を掴まれたとき。私は……すぐに手を振り払って、あの人のところに行かなきゃいけなかったのに……なのに……」

 泣きそうに眉を下げて、リリアは苦笑する。
 どうしようもない自分を、叱ってほしい気持ちだった。

「私は……。ボスと一緒に生きたいって、そう、思ってしまったんです……」

 リリアは小さな罪を打ち明けるように、震えた声で口にする。

 息を飲んで固まったのはグレイのほうだ。
 油断していたところに、右側から顔面を殴りつけられたような衝撃だった。

「あー……リリア」
「は、はいっ」

 リリアに覆いかぶさったまま、グレイは親指でリリアの唇をなぞる。

 瞳にめいっぱいの情欲を含んで、リリアを見下ろした。

「キスしていいか?」

 リリアは息を飲んだ。
 大きな瞳に薄い膜を張って、キョロキョロと落ち着かない様子で視線をさまよわせて、やがて、小さくうなずいた。

 うなずいているのかも怪しいかすかな動きだったけれども、グレイはニヤリと口端を上げて笑う。

「好きがわからないんじゃねェのか」
「え、と。わからない、ですけど……触られるのを、嫌だとは、思いません。それではダメですか?」

 じっと、おそるおそる問いかけるように、リリアはグレイの顔を見上げた。

 グレイは自分の黒い髪を掻き上げ、苦笑するように笑う。

「ダメじゃねェけどよ」

 そうして、青い双眸でリリアを見下ろして、少しずつ体を倒す。

 唇が触れ合う直接で、グレイは咎めるように目を細めた。

「他の奴にはすんなよ、リリア」

 うなずこうとしたときには、もう、奪うように唇が触れ合っていた。

 自分のものではない柔らかさに驚いて、反射的に逃れようとする。けれども、すぐに大きな手がリリアの頭を押さえつけて、落ち着かせるように優しく撫でていく。

 かすかな吐息が唇の隙間から溢れていく。

 体の熱が上がって、頭がぼんやりとする。

 もっともっとと、貪るように食いつかれて、リリアは首を仰け反らせながら拒絶した。

「ん……ゃ、ぼす……」

 ハッとしたように唇が離れていって、リリアは足らない酸素を必死に吸い込んだ。

 気まずそうに頭の後ろをかいたグレイがリリアを見る。

「あー、悪い。理性飛びかけた。大丈夫か?」


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