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18

 リリアは大きく目を見開いた。そうして、たった今言われた言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。

(惚れている……私に……。ボスが?)

 青い、透き通るような瞳が、真剣な眼差しでリリアを見つめている。
 今は昼時だというのに、しっとりとした、夜の夕闇のような静けさが部屋の中にはあった。グレイはそれ以上何も言葉はせず、リリアの動向をじっと見守っている。
 何か言わなければと思うのに、何を言ったらいいのかわからない。
 口に出すべき言葉を何度も考えて、そうして。
 リリアはグレイと視線を合わせたまま、乾いた唇を舌で濡らし、そっと口を開いた。
 声は、かすかに震えてしまっていた。

「え、と……。じょ、冗談、ですか……?」

 グレイの形のいい眉がピクリと動いた。
 青い瞳は細められて、いつもよりもいっそう鋭くなる。
 リリアは自分を突き刺すような、刃のごときグレイの瞳に耐えきれず、ヘラりと笑って、顔をうつむかせようとした。その目から逃げようとしたのだ。恋焦がれるような熱に浮かされた瞳からも、不快感をあらわにする冷たい海のような瞳からも。
 だが、その瞬間。
 リリアの左右の頬に、大きな手のひらが触れる。両手で頬を挟まれて、グイッと、無理やり上を向かされた。
 鼻先が触れそうなほど近くに、顔がある。作り物みたいに、綺麗な顔が。

「ゃ……ボス……」
「ヘラヘラ笑って誤魔化そうったって、そうはいかねェんだよ」

 怒ってる。
 リリアは本能的にそう思った。
 反射的に身を引こうとするが、がっしりとリリアの顔を押さえつけているグレイの手は、そうやすやすと外れそうにない。

「無理やり解らせたほうがいいか? あァ?」

 グレイが顔をわずかに右に傾けて、目を細める。
 青い瞳の中に、燃えるような熱情が灯っていた。ゆらゆらと妖しく揺らめいて、リリアの思考を絡めとる。ハッ、と、リリアは息を飲んだ。海に溺れた鳥のように、上手く息ができない。

 二人の距離が、ほんの少し、縮まる。

 唇と唇が重なる、手前。
 互いの吐息が触れ合うくらい近い距離で、グレイがジッと、リリアを見た。

「嫌がらねェのか」
「……っ」

 青い瞳が、つっと細くなる。

「本当にしちまうぞ。キス」

 かぁっとリリアの顔に熱が上った。
 できたのは、ただ、小さく首を横に振ることだけ。

 少しの沈黙のあと、ふっと、吐息だけで笑った気配がした。
 ほんのわずかに空いていた距離が、ゼロになる。

 唇を、少しだけ外れた場所。頬と唇の境目に、グレイの薄い唇が触れていた。
 そのまま滑るように唇は耳に流れて、リリアの頬を挟んでいた手は、抱き込むようにリリアの頭の後ろに回っていた。硬い左腕がリリアの頭を抱え、小さな耳のそばでは笑うような吐息が響く。あまりの近さに、リリアは目を回した。
 ふわりと、爽やかな香りが強く鼻をくすぐる。

「ばァか。しねェよ。無理やりなんざ」
「……はっ……ボス……」

 ようやく、リリアは呼吸をした。
 息を止めていたことも忘れてしまうくらい、青い瞳に吸い込まれていた。とろりとした、溶けそうな甘さの中に、揺るぎない確固たる意志を宿す瞳。リリアにはあまりにも、魅力的に見えた。
 強く、キラキラと輝く、宝石のようで。

 リリアの頭を抱き込んでいないグレイの右手が、リリアの髪をそっと耳にかけた。

「すぐにどうこうなろうなんて、思っちゃいねェさ」

 耳元で、くつくつと笑うような声が響く。
 鼓膜に直接息を吹きかけられているみたいで、落ち着かない。

「けどなぁ……」

 がぶりと耳に噛み付かれた。
 リリアはビクリと体を震わせ、食われかけのウサギのように固まって獣の気配をうかがう。

 
「逃げられると思うなよ」
 

 嘲笑うような声がかすめていった。

 心臓が、爆発を起こしたかのように、うるさく響いている。
 今起きた一瞬の出来事を、消化しきれない。

「ぼ、すは……」
「あ?」
「わ、私が、すき、なんですか……?」
「だからそう言ってんだろ」

 リリアは戸惑う瞳の中で、必死に答えを探す。

「そ、それは……どういう意味の、すき、ですか……?」
「あァ? 惚れてるっつただろ」
「え、と。それは……友だちとかとは、違います、よね。えっと、だから……」

 しどろもどろにリリアは言葉を探していく。
 上手く伝えられないのがもどかしい。

「……おまえ……まさか、キスも知らねェとか言わねェよな?」
「そ、それは知ってます。昔、おとぎ話とかで読みました。死の眠りについたお姫様を目覚めさせる、とかで……」
「……おい、なんか違ェ……」

 はぁーっと、深いため息がリリアの耳元で響いた。

 身を硬くするリリアの体に、グレイの体重が一気にのしかかる。
 潰れそうになりながら、後ろ向きにベッドへ倒れ込む。二人分の重みを受けて、ふわりと布団が羽根のように膨らんで舞った。

「ばァか」
「ぼ、ボス、重いですっ」
「ほんとに食っちまうぞ」

 グレイはリリアの手を取り、見せつけるかのごとく、がぶりと指先に歯を立てた。

「おまえ、男と女の恋愛も知らねェのか」

 リリアは顔を真っ赤に染め上げて、不安げに瞳を揺らす。

「し、知ってます。恋愛小説とか、読んでましたし……」
「ほぉ?」
「で、でも、したことはない……です」

 消えそうな声で、小さく呟いた。

「ずっと、女学院にいて。聖女に選ばれてから、外に出て、殿下……。えっと、王子様や、他の人に会いました」
「……おまえ、まさか男に会うの、それがはじめてだったのか?」
「いえ、パーティーがありました。そんな大きなものじゃなかったですけど……」

 女学院がある場所と、普通の街は少し距離があった。それが、年に二回、いくつかの学校が集まって合同のパーティーを開く。

 けれども、たったそれだけだ。
 恋愛なんて、夢のまた夢。
 特定の誰かに、そんな気持ちを抱いたこともない。
 胸がドキドキして、落ち着かなくなる気持ちなんて。
 抱いたことなんてない、はずなのに。

 リリアはあの毒殺事件のパーティーでのことを思い出す。

 キュッと唇を引き結んで、グレイを見た。

「ぼ、ボスは、私をどんな風に好きなんですか?」
「は?」
「えっと、どんな気持ちなのかなぁって……」

 リリアを見下ろしていたグレイが、面白がるように笑みを深めた。

「だから言っただろ。おまえに死んでほしくねェと思うんだよ」
「そ、そうなんですね」
「他にもいろいろあるが、何が聞きてェんだ?」
「……え?」
「独占したい、甘やかしたい、隠したい、見せびらかしたい、食いたい、めちゃくちゃにしたい、泣かせたい」

 リリアはぶわっと顔を赤く染め上げて、もういいとばかりに首を振る。
 止まらない言葉を押さえようと、グレイの口に手を押し付けた。ニヤリと笑った獣が、グイッとリリアの手をつかむ。

 ドキンッ、と、リリアの心臓が跳ね上がった。

「で? 好きはわかりそうか?」
「え、あ……わ、かりま、せん……」

 グレイが黙って目を細めた。

「でも、えっと……」
「なんだ」
「……あ、あのとき。パーティーでボスに手を掴まれたとき。私は……すぐに手を振り払って、あの人のところに行かなきゃいけなかったのに……。なのに……」

 泣きそうに眉を下げて、リリアは苦笑する。
 どうしようもない自分を、叱ってほしい気持ちだった。

「私は……。ボスと一緒に生きたいって、そう、思ってしまったんです……」

 リリアは小さな罪を打ち明けるように、震えた声で口にする。

 それに息を飲んで固まったのはグレイのほうだ。
 油断していたところに、右側から顔面を殴りつけられたような衝撃だった。

「あー……リリア」
「は、はいっ」

 リリアに覆いかぶさったまま、グレイは親指でリリアの唇をなぞる。
 瞳にめいっぱいの情欲を含んで、リリアを見下ろした。

「キスしていいか?」

 リリアは息を飲んだ。
 大きな瞳に薄い膜を張って、キョロキョロと落ち着かない様子で視線をさまよわせて、やがて、小さくうなずいた。
 うなずいているのかも怪しいかすかな動きだったけれども、グレイはニヤリと口端を上げて笑う。

「好きがわからないんじゃねェのか」
「え、と。わからない、ですけど……触られるのを、嫌だとは、思いません。それではダメですか?」

 じっと、おそるおそる問いかけるように、リリアはグレイの顔を見上げた。

 グレイは自分の黒い髪を掻き上げ、苦笑するように笑う。

「ダメじゃねェけどよ」

 そうして、青い双眸でリリアを見下ろして、少しずつ体を倒す。

 唇が触れ合う直前で、グレイは咎めるように目を細めた。

「他の奴にはすんなよ、リリア」

 うなずこうとしたときには、もう、奪うように唇が触れ合っていた。

 自分のものではない柔らかさに驚いて、反射的に逃れようとする。けれども、すぐに大きな手がリリアの頭を押さえつけて、落ち着かせるように優しく撫でていく。

 かすかな吐息が唇の隙間から溢れていった。

 体の熱が上がって、頭にぼんやりと霧がかかっていく。

 もっと、もっと。
 そう、貪るように食いつかれて、リリアは首を仰け反らせながら拒絶した。

「ん……ゃ、ぼす……」

 トントンと、グレイの胸元を弱々しく叩くと、ハッとしたように唇が離れていった。リリアは必死になって、足らない酸素を吸い込んだ。

 気まずそうに頭の後ろをかいたグレイがリリアを見る。

「あー、悪い。理性飛びかけた。大丈夫か?」


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