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19

 リリアを労わるように、グレイが指の背でリリアの頬をなでていく。触れているのかも怪しいくらいの優しい手つきに、リリアは目を細めた。
 そうして、緩慢な動作で口を開き、舌ったらずに声を出す。

「……ぼす……」

 ゴロゴロと喉を鳴らすネコが、主人に甘えているかのような声だった。「もっと」と、そうせがむみたいに、リリアはグレイを呼ぶ。
 呼ばれたグレイは苦笑いをこぼし、体を倒すと、リリアの額に優しく唇を寄せた。わざと軽めのリップ音を立てて、離れる。

「悪りィが、どうやら、そう理性あるタイプじゃないっぽいんでな。あんまりその気にさせんじゃねェよ」
「その気……?」

 リリアはぼんやりしたまま、グレイに視線を向ける。視線と視線が絡みあった瞬間、グレイは考えるように一瞬視線横に流し、またリリアに向き直る。そうして、ニヤリと口端を上げた。

「ぼす……?」

 グレイはリリアの右手を恭しくとった。その小さな手のひらに、自分の唇を押しつける。そのままリリアの手のひらを食むように、軽くついばんだ。

「……ッ」

 リリアの指先が小さく震える。逃げようと手を引いても、ビクともしない。リリアが思っているよりもずっと、グレイの力は強かった。
 戸惑っているうちに、また手のひらに走る、くすぐるような感覚。それと一緒にやってくる、背筋がゾクリとする甘いしびれ。

「んっ……」

 リリアから、鼻から抜けた甘い声が出た。熱の混じった、空気を湿らせていく吐息が、部屋の雰囲気を変えていく。
 グレイはほんのり頬を赤らめるリリアを見て、薄く笑みを浮かべた。瞳の奥に、ギラギラとした光を宿しながら。

「こういうこと。……するか?」

 不敵につり上がる口角も、挑戦的に細まる青い瞳も、妖しい色気を放っている。
 それを真っ直ぐに向けられたリリアは、首から上を真っ赤に染めあげて、そっとグレイから視線をそらした。

「し、しない、です……」

 蚊の鳴くような声で、リリアは答えた。
 すぐに喉の奥で笑う声がして、リリアの指先にそっと口づけが贈られる。
 そうしてようやく、右手が解放された。
 リリアは自分の右手を守るように胸もとに抱き込んで、おそるおそるグレイを見た。

 宝石のような青い瞳が、面白がるようにリリアを見下ろしていた。

「そりゃァ、残念だ」

 たいして残念とは思っていない口調でグレイは言ってのけて、再び体を倒してリリアに唇を寄せる。

「ぼ、ボスっ!」

 リリアが軽くグレイの体を押し返すと、ピタリとグレイは止まる。そうして、試すような瞳でリリアを見る。

「嫌か?」

 リリアは言葉に詰まった。

「嫌がることはしねェよ。嫌か?」

 リリアはしばらく沈黙して、やがて、小さく首を振った。

「いや、じゃ……ありません……」

 湧き上がった羞恥にかすかに涙を浮かべながら、リリアはそう口にした。
 グレイの唇がゆるやかに上がって、どこか満足気な表情を浮かべる。
 軽く唇が触れ合って、やがて何度も角度を変えて交わっていく。苦しくなれば少し離れて、リリアの呼吸が整うとまた唇がやってくる。

 そうして何度もキスをして、少しだけ慣れてきたころ、リリアはグレイの顔を見つめて違和感があることに気づく。じっとグレイの顔を見ていると、名残惜しそうにしながら唇が離れていった。

「どうした?」

 乱れた呼吸を整えて、リリアはグレイの顔を見る。
 リリアはグレイの目の下をなでながら、かすかに首をかしげた。

「ぼす、疲れてますか……?」

 グレイは虚をつかれたように目を丸くして、すぐに苦笑いを浮かべる。

「あァ……、最近少しバタバタしてたからな。まァ、大したことねェよ」
「あまり寝ていないのなら、眠ったほうがいいですよ」

 じっとリリアを見下ろしていたグレイは、ニヤリと意地悪く笑った。

「添い寝でもしてくれんのか?」
「……え」

 ゴロリと、グレイはリリアの隣に寝転んだ。そうして、リリアの体を引き寄せ、細い首筋に顔を埋める。

「えっ! あ、あのっ、寝るのなら自分の部屋のほうが……」
「自分の部屋じゃ寝れねェよ」
「え……?」

 グレイはリリアを自分の胸もとに抱き込んで、囁くように口にした。

「おまえがなかなか目ェ覚まさねェから、寝れなかったんだよ。目ェ離した隙に、惚れた女が死ぬんじゃねェかってな」

 リリアはゆっくりと口を閉ざした。そうしてたくさんの言葉を飲み込む。
 胸の奥の奥が、キュッと切なくなる、不思議な感覚に包まれる。

 自分の死が、誰かを苦しめる。

 それは、リリアがあまり、考えたことのないことだった。
 嬉しいような、悲しいような。
 リリアにはまだ、理解できない感情の渦がやってくる。

 グレイの手が、リリアの髪を梳くようになでていった。そうして、リリアの耳元に顔を寄せ、声を響かせる。慈しむような、愛おしむような、懇願するような。そんな声を。

「……リリア」

 リリアはそっと、グレイに寄り添うように身を寄せた。胸元に頭を寄せて、かすかに聞こえる心臓の音に耳をかたむける。

「……ここにいます。それなら、少しは眠れそうですか?」
「あァ……」

 グレイはリリアの体に腕を回したまま、小さく息を吐いた。リリアをあやすように、リリアの髪を弄っていたが、しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえ始める。
 リリアはグレイの寝顔を眺めて、熟睡できていることにほっと息をついた。

 そうして、リリアも同じように眠ろうと目を閉じてみるが、眠気はやってこない。それもそのはず。リリアは何日もずっと眠っていたのだから。

 することもなく、ただぼんやりとグレイの顔を見ていたリリアだったが、体が覚醒したと認識し始めたのか、小さくお腹が鳴った。
 キュルキュルと何度もリリアの腹は音を立てる。その音でグレイが起きてしまうんじゃないかと、リリアは必死にお腹に力を入れて、その音を抑えようとした。
 何日も食べもの口にしていないから、体が悲鳴をあげていた。それに、尿意もやって来た気がして、リリアはぐるぐると考える。

 しばらく葛藤した末、リリアはグレイを起こさないように、そっとグレイの腕を外した。そうして、体の欲が示すまま、お手洗いに向かい用を足すと、食べるものを求めて部屋を抜け出した。

「下、食堂になってるって、シーカーさん言ってたよね……。お水とかもらえるかな」

 木製の階段を下っていくと、活気ある風景が見えてくる。丸いテーブルと、その周りを囲む椅子。楽しげな笑い声と、鼻の奥をくすぐる香ばしい匂い。
 リリアが階段を降りきると、ざわっと店内が揺れた。店の中の人たちみんなが、リリアに注目していた。

「……紫の瞳……」
「金の髪に、紫の瞳だ。本当にいたのか……?」

 リリアは突然注目されたことに戸惑いの表情を浮かべる。

「え、あの、えっ……」

 店中の人が、リリアを見ていた。ギラギラとしているような、恍惚としたような。まるで、神でも崇めているかのような、血走った目をしながら。

 リリアが固まっていると、少しずつ人が近づいてくる。一歩、一歩、リリアに歩み寄っては、やがて我先にと駆け出した。人と人がぶつかり合って、リリア目がけて突撃してくる。
 見たこともない恐ろしい光景に、リリアは震えながら立ちすくんだ。

「ひっ……!?」

 人の並が押し寄せ、押し潰されそうになる。そんなリリアの手を、グイッと誰かが強く引いた。
 そのまま、リリアを庇うようにして、店の外に連れ出してくれる。

 リリアはわけも分からず、その手に引かれるまま走った。初めはグレイかと思ったが、その背中に見覚えはない。短い髪と体躯から、男だということはわかった。
 リリアをつかんでいる手には、真っ白の手袋がはめられている。

 店を出て、大通りを走り、角を曲ってはまた走る。

「まって、待ってくださいっ……」

 リリアが呼びかけると、男は人気のない小道に入り、リリアを背にして物陰に身を潜める。
 リリアたちが走っていた道を、幾人もの人が駆け抜けていった。「女神がいた!」と、そう口にしながら。

 リリアは小さく身を潜める。そして人が居なくなったことを確認して、そっと、助け出してくれた男の背中を見た。

「あの、ありがとうございました」
「いいえ、礼にはおよびません。久しぶりですね。聖女リリア様」

 くるりと振り返った男は、少しズレていた眼鏡をクイッと押し上げてリリアを見た。
 リリアは息を飲んで固まる。
 男に、見覚えがあった。

 その男は、リリアが国外追放となったときに、唯一追いかけて来てくれた人物だ。

 リリアの母国の宰相である男、ルーザー・クヴィスリン。その男の遣いだと、そう名乗って、リリアに手を差し出した。

「どう、して……ここに……」

 リリアは無意識に一歩足を後ろに引いた。

「ずいぶんと探しましたよ。ですが、無事に見つけることができて安心しました」

 男は、真っ白の手袋がはめられた手を、リリアに差し出した。

「お戻りを。リリア様」

 リリアは紫の瞳を大きく見開いて、その手を見つめる。そして、強ばった顔のまま、クヴィスリン宰相の遣いの男を見た。

「も、戻れません」
「このままここに居ることは良くないと、お分かりになりませんか?」

 リリアは沈黙した。たった今起きた騒動を思い返して、瞳が揺れる。あの人たちは、間違いなくリリアを捜していた。
 シーカーが、リリアが女神だと噂になっていると言っていた。それを聞いたときは、こんなに大事になっているなんて思ってもいなかった。
 このままグレイたちといたら、迷惑がかかってしまうんじゃないか。そう考えては、瞳が揺れる。けれども。

『あの国には帰るなよ、リリア』

 そう口にしたグレイを思い出して、リリアはキュッと唇を引き結んだ。一度深呼吸して心を落ち着けると、ゆっくりと顔を上げた。

「……お世話になっている方がいます。その方たちに黙って行くことは、できません」

 まっすぐに、リリアはクヴィスリン宰相の遣いの男を見た。
 クヴィスリン宰相の遣いの男は、深くため息をつき、かすかに微笑む。

「そうですか。仕方がありませんね」
「……ごめんなさい。助けてくださって、ありがとうございました」

 頭を下げて、リリアは男の脇を通り過ぎようとした。

「手荒なことは、したくなかったのですが」

 そんな、無機質な声が響いた。

 リリアが振り返ろうとした瞬間、くらりと目の前が揺れた。体に力が入らなくなって、リリアはその場に崩れ落ちる。地面にぶつかる前、逞しい腕に支えられた。

「申し訳ございません。あまり、時間がないもので。あなたのためでもあるんですよ、リリア様」

 真っ暗に染まっていく視界の奥で、そう、聞こえた気がした。


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