【今世は継母として、双子が幸せに暮らせる場所を作ります】ピッコマ連載開始!

厄介者王子を押しつけられた令嬢ですが、噂と違って溺愛されているのですが!?

 息をするのも気を遣う張り詰めた空間に、一つの靴音が冷ややかに響く。
 シャンデリアで照らされた豪華絢爛な大広間には、国中から集められた貴族令嬢たちがズラリと並んでいた。全員未婚、婚約者未定。
 彼女たちは頭を下げたまま身動きせずにいるが、みんな揃えたかのように顔色が悪かった。
 冷や汗が伝い、唇は震え、強張った顔のまま床の一点をジッと見つめている。

 靴音が響くと同時に、令嬢たちはビクッと怯えたように肩を揺らす。青ざめる彼女たちの前を、腕を組みながらゆっくりと通りすぎる男。男が通りすぎたあとの令嬢は、静かに、そして腹の奥から安堵の息をもらす。

(大丈夫、大丈夫っ。私のお家は普通だから。取り柄だってないもの……っ)

 心の中でブツブツと祈る一人の華奢で小さな令嬢、グリセアラ・アルフィード。
 アルフィード伯爵家の一人娘である。とくにこれといった特徴もない、平々凡々な令嬢だ。目が大きくやや愛らしい顔をしてはいるが、そんなものはこの場では意味がない。グリセアラよりも容姿が優れ美しい令嬢はたくさんいた。
 やわらかな栗色の髪は汗ばんだからかくるくるとカールしており、いつもは白い頬に紅が混ざっているが、今は極度の不安から青白い。

 カツン、カツン、カツン──……。

 足音が、止まった。

 グリセアラは自分の足元に影が落ちているのに気づき、目を瞠った。額からは、ドバっと冷や汗が流れる。

(う、嘘……。お願い、どこかに行ってください! お願い……っ)

 願いも虚しく、手が伸びてきた。
 スラリとしていて、骨張った美しい指先。それが、グリセアラのふわふわの髪を下から掬った。

「この子にする」

 それは、生贄が決まった合図。
 促される声に従ってゆっくりと顔を上げたグリセアラは、今後の人生の終わり悟って涙を浮かべていた。

「君の名前は?」
「……ぐ、グリセアラ・アルフィードでございます…………王太子殿下……」

 グリセアラが名乗ると、とびっきりの笑顔が返ってきた。

「うん、今日からよろしく。婚約者様?」

◇◇◇

 プラチナブロンドの髪に、神秘的な紫の瞳。この国で紫はとても高貴な色だ。それを持って生まれたこの国の王太子は、将来優れた王になるだろうと言われていた。
 歴代の紫の瞳の王たちが、優れた功績を残し、賢王と呼ばれていたのも理由の一つだった。

 だが、期待と現実は違う。
 王は王でも、類いまれなる愚王になることが予想されるような、とんだ怠け者の王子に成長した。勉強はサボり、気に入らない食事が出ればひっくり返し、隙を見て城を抜け出しては街で暴れる。
 いったいなにを間違えたのか。
 教育が悪かったのか、元々の素質が愚かだったのか。
 王はとにもかくにも焦った。他に王位を継げる者がいない。遠縁をたどりにたどって、ほとんど血の繋がりもないような者を王にするか。いっそこの国が滅びるか。

 王は考えに考えて、一つの案を閃いた。
 この愚鈍さを補える優秀な令嬢と結婚させればいいと。王が愚かなら飾りにしておけばいい。
 早速婚約者を見繕った。高位貴族の中で、とくに優れた知識を持つ令嬢を選んだ。
 だが、愚王子は令嬢の肖像画を一瞥し、ハッと鼻で笑った。

「結婚はしない。王家は滅んで終わりだね」

 あっけらかんと言われたその言葉に、血が上った。こんな愚息しかいないなんて、王はなんて愚かなんだと囁かれはじめていることを知っていた。自分の代で失態をするのも癪だし、どうしようもできないことを愚弄されれば腹が立って仕返しをしたくもなる。

「おまえは王になる。なにがあってもだ!」

 目尻をつり上げる自分の父親をソファに寝そべったまま興味なさげに見つめ、愚王子は「ふぅん?」と口にした。そして、ゆるりと紫の瞳を細める。

「自分で選んでいいと言うなら、結婚する」

 その一言で、国中から未婚の令嬢が集められた。
 だけど、令嬢たちはみんな知っていた。選ばれてしまえば、地獄の人生が待っていると。

 貴族の令嬢なら、大小あれどそのうち良縁がやってくる。なぜわざわざ人生を捨てるような結婚をしなければならない。

 全員が祈っていた。

 選ばれませんように!
 と。

 なのに、不幸にも王子に見初められてしまったグリセアラ。逃げられないようにするためか、その日のうちに監禁──王宮生活がはじまった。

「こんなことって……」

 絶望に打ちひしがれながら、渡された今後の日程を見る。
 朝、昼、晩、すべて勉強である。
 食事の時間以外、休憩もほとんどない。
 あの王太子を支える立派な妃になるための、王太子妃教育という名の勉強がみっちり詰まっていた。
 のんびりお茶をする時間も、大好きな刺繍をする時間もないなんて、生きながら死んでいるようなものだ。
 一生こんな生活が続くのだろうか。
 あの王太子に選ばれてしまったばっかりに。

「うぅぅぅ……」

 グリセアラはその日の晩、与えられた自室で一人孤独に枕を濡らした。

 翌日、グリセアラは早朝に起きて、侍女たちに身支度を手伝ってもらい、部屋のソファにちょこんと腰かけてレッスンが行われるのを待っていた。
 だけど、なにかおかしい。

「どうしたのかしら? もうレッスンははじまっている時刻のはずなのに」

 もしかして、自分でレッスン室に行かなければならなかったのだろうか。
 でも、どこでレッスンが行われるか聞いていない。
 グリセアラについた侍女も、これからの行動もレッスン室の場所も知らないようだった。

「ど、どうしましょう」

 すでに不安で怖い。
 まさか、これが王宮でのいじめだろうか。
 グリセアラは王太子の婚約者選びのためにお城に行く前に、兄に言い聞かせられていた。
 王宮は一番権力の渦巻く危険な場所。選ばれることはないだろうが、万が一があった場合、必ず舐められないように振舞うことを教えられた。それが、身を守る術でもあると。

 不安に揺れるグリセアラは、もう遅いかもしれないと思いつつも、自らレッスン室を探しに行くことにした。
 こんなことでくじけていては、これから先、生きていける自信がない。

(なんとかしないと……!)

 グリセアラはまず、自分付きの侍女にどこでレッスンが行われるのか聞いてくるよう指示を出した。
 その間、バクバクと緊張と不安で鳴り響く心臓と一緒に留守番をする。

「頑張らないとダメよ。お兄様たちに、迷惑がかかってしまうもの」

 小さな声で自分を叱咤する。
 王太子の婚約者に選ばれてしまったのだ。グリセアラが失敗すれば、その非難の目は家族にも向けられるかもしれない。爵位はく奪、家は没落なんてことになっては大問題だ。呑気にのほほんと暮らしていたころには戻れない。やれることを、しっかりやらないと。

 とはいえ、今は待つしかできない。

 しばらくジッと待っていると、ふと、王宮の外が騒がしいことに気がついた。
 グリセアラは大きな窓へと近づき、そのまま窓を開けてバルコニーへと出た。

「……なにかあったのかしら?」

 幾人もの文官、騎士、メイドたちが慌ただしく行ったり来たりしている。
 みんな戸惑った顔を浮かべたまま、必死に足を動かしていた。
 その様子を見ていると、部屋がノックされる。

「グリセアラ様!」

 侍女が戻ってきたようだ。
 グリセアラは窓を閉めてソファに座り直し、入るように声をかける。

「おかえりなさい」

 そう言いながら笑いかけたが、侍女は戸惑った顔をしながら報告をはじめた。

「レッスンですが、本日は取りやめるそうです……」
「え? 理由はお聞きしたのですか?」
「はい……。それで今、王宮は大騒ぎでして……」

 もったいぶった言い方にグリセアラは小首をかしげる。

「その……王太子殿下が、仕事をなさっているようなのです」
「……え。えぇっ? 殿下がですか?」

 あの愚王になるだろうと言われていた、王太子殿下が。仕事を。している!?
 グリセアラはあまりの衝撃に一瞬言葉も美しい所作も忘れた。

「は、はい。申し訳ございません。私もまだ人伝に聞いたばかりでございます。もう少し情報を集めてきましょうか?」

 訪ねているが、侍女自身が気になってしかたがないのだろう。
 ソワソワしているので筒抜けだ。
 グリセアラはふわりと笑って、「お願いします」と答えた。すぐに侍女がグリセアラの部屋を飛び出していく。
 その気持ちはわかる。大スクープだ。退屈な王宮での、一大スクープになる内容だ。いったいなにが、どうして、王太子が仕事をはじめた? 仕事をはじめたとして、この国は大丈夫なのか!? 興味は尽きることがない。

 グリセアラも部屋を出てゴシップに飛びつきたいが、そんなはしたない真似はできない。
 落ち着かない気持ちでため息をつくと、ふと、部屋にある机の上に裁縫箱があることに気がついた。

 グリセアラはきょろきょろと辺りを見回して、だれも来そうにないことを確認してから立ちあがり、そっと裁縫箱に近づく。
 両手で抱えるくらいの大きな三段箱の木箱だ。薄く磨き上げられたクルミ材の箱のようで、上蓋には金の金具が四隅を飾り、中央には深い紫をしたアメジストの宝石が嵌め込まれている。光を受けるたびに、宝石の奥に秘められた輝きがきらめいた。

 そっと蓋を開けると、ほのかに香草の香りが立ちのぼった。
 一段目には、滑らかな手触りのローズウッド製刺繍枠が二つ。その縁には、細かな唐草模様の彫刻が施されていた。

「素敵……」

 二段目と三段目には、色とりどりの絹糸が小さなガラス瓶に巻かれ、シルクやコットン生地が庭園の花を閉じ込めたみたいに美しく並べられている。紅、翠、瑠璃、薄金、白……。見ているだけでうっとりしてしまうくらい美しい。どれも最高品質だとすぐにわかった。輝きがそもそも違うのだ。
 木箱の横には、山羊革の装丁がされた小さな図案帳が置かれていた。

「使ってもいいのよね?」

 グリセアラの部屋にあるのだから、おそらく使っていいものだろう。全部が新品だから、王太子の婚約者のために用意されたものかもしれない。貴族の令嬢が刺繍をするのはよくあることだ。

 そっと図案帳を持ち上げてみると、その下に一枚の刺繍台紙が敷かれていたのに気づく。描かれていたのは、王宮の庭園に咲く「星花」と呼ばれる花の模様。花びらが五枚で星形をしている小ぶりでかわいらしい花だ。

「わぁ……綺麗。星花は王家の花とも言われているから、手に入らないのよね。いいのかしら?」

 そう思いつつも、すでに使ってみる気でいる。
 グリセアラは王太子のこともすっかりと忘れ、木箱を抱えて上機嫌でソファに戻った。
 そして、早速布と糸を選び、刺繍をはじめる。星花は、中央が紫で、花弁は黄色だ。

 針に糸を通し、選んだ白いコットン生地にチクチクと刺繍をしていく。しばらく没頭していると、部屋の扉がノックされた。

「グリセアラ様、戻りました」

 グリセアラの侍女だ。
 情報集めをしてもらっていたのをすっかりと忘れていた。
 グリセアラは刺繍をしていた手を止め、膝の上に置いて、声をかける。

 部屋に入ってきた侍女は、興奮に頬を赤らめていた。なにやら、大事件があったようだ。

「どうでしたか?」
「それが……っ! 王太子殿下が別人になったと王宮内ではもちきりです! なんでも、指示が的確で、不正に手を染めていた家臣を次々炙り出しているのだとか」
「えぇっ、そうなのですか。なにがあったのでしょう……」

 グリセアラがそう答えると、侍女がじぃっとグリセアラを見つめてきた。

「グリセアラ様ではありませんか?」
「え?」
「もう一つ、王宮内で話題になっていたのですが、殿下はグリセアラ様に一目惚れなさって、いいところを見せようとされているのではないか、と……」
「ええっ。そんなこと、ありえないわ」

 すぐに否定したグリセアラだったが、侍女は神妙な顔で首を横にふった。

「グリセアラ様のレッスンを取りやめたのも、殿下だそうですよ」
「レッスンを……殿下が取りやめに?」

 グリセアラは、膝の上の刺繍布をきゅっと握りしめた。

「殿下がそんなこと……なぜ……?」

 グリセアラは戸惑った。だって、グリセアラはこの王宮に生贄として来たと思っていたのだから。
 婚約者に選ばれたあと、みっちり詰まった賢く優秀な妃になるための勉強の日程を見て、今までのグリセアラとしての人生は終わり、国に尽くす妃として生きなければならないと覚悟を決めたのに。

 どうして?

 それとも、これも王宮式の嫌がらせなのだろうか。
 グリセアラに教育をさせず、無能だと罵るための……。

「それなのですが、殿下の従者から手紙を預かりました」

 侍女は一枚の真っ白の封筒を取りだし、グリセアラに向かって両手で差し出してくる。
 グリセアラは戸惑いつつも手紙を受け取った。
 王家の紋章の封蝋がされている。あの王太子殿下からだろう。

 テーブルの上に置いてあったペーパーナイフで開けると、震える手で手紙を取りだし、一番上から文字を追っていく。

『親愛なるグリセアラ

三日後の午後に二人だけのお茶会を開きたいのだが、同席してくれるだろうか?
いい返事を待っているよ。

レオニス・モンフォール』

 とても簡素な内容だった。
 侍女が期待と興奮の眼差しでグリセアラを見ている。

「えっと……お返事を書きますので、紙とペンの用意をお願いします」
「かしこまりました」

 グリセアラは了承の返事を書いて、侍女に持たせた。
 帰ってきた侍女は、青い模様の入ったティーカップにポット、それからアフタヌーンティースタンドに、ショートケーキ、スコーン、クッキーにマフィン、チョコレートとたっぷりお菓子が乗ったワゴンを押して戻ってきた。

「殿下が、グリセアラ様にと用意してくださったようですよ。それと、返事を預かりました」

 レッスンが取りやめになっただけでなく、のんびりお茶をできるなんて、昨日流した涙はいったいなんだったのだろうか。

 グリセアラはまた封筒を受け取り、中の手紙を読む。

『親愛なるグリセアラ

返事をありがとう。
お茶会までは自由に過ごしていてくれ。
刺繍が好きだと聞いていたから裁縫箱を用意したけど、気にいってくれただろうか?

レオニス・モンフォール』

 グリセアラは目を皿にして手紙の文字を何度も読んだ。

 あの高級そうな裁縫箱は、王太子が用意したものだったのだ。

(刺繍が好きって、だれから聞いたのかしら……?)

 グリセアラはまた返事を書いたが、それに対しての返事はなかった。

 そうして、三日後のお茶会の日。

 指定されたのは、王宮の庭の一角。真っ白のガゼボが日よけにもなり、庭の美しい花々を眺めることができる特等席だ。
 グリセアラはカールした栗色の髪を侍女にいつも以上に丁寧に梳かしてもらい、ハーフアップにまとめてもらう。
 そして、悩みに悩みぬいた薄い水色のドレスを身にまとい、お茶会の場へと向かう。

「あちらですね」

 侍女が示した場所には、すでに白い正装をしたレオニスが待っていた。
 プラチナブロンドが美しく輝き、魅惑的な紫の瞳がグリセアラを見つけると、かすかに細められる。その眼差しが、優しげにみえたのは都合のいい幻だろうか。

 もしかしたら、仲良くやっていけるかも──だなんて。

「来てくれてうれしいよ、グリセアラ」

 レオニス自ら、グリセアラが座る椅子を引いてくれた。
 ガゼボの下には白い丸テーブルと椅子が用意されていて、そばにはメイドが三人控えていた。それとは別で、レオニスの座っていた椅子の後ろに男の従者が一人。

「ありがとうございます、殿下」
「あれ、レオニスとは呼んでくれないの? 婚約者なのに」

 グリセアラは腰かけた姿勢のまま固まった。
 後ろから、ひょいと美しい顔がのぞきこんでくる。高貴な紫が悩ましげに揺らめいた。

「婚約者だよね?」
「え、は、はい。そうです」

 グリセアラが小さくうなずくと、レオニスは猫みたいにキュッと目を細め、うれしそうに笑う。

「なら、名前で呼んで」

 ドキンッ!と心臓が跳ねた。
 グリセアラは異性を名前で呼んだことがほとんどない。パーティーで男の人と会話することがほとんどなかったという悲しい結果でもあるが、グリセアラ自身がほにゃらら伯爵のご子息様などと他人行儀に呼んでいたのもある。

「え、えと、ですが、その」
「呼べない理由でもあるのかな?」

 笑顔だった。清々しいくらいの笑顔だった。のに、なぜか威圧されている気がした。

「い、いえっ。……れ、レオニス様……」

 威圧のない爽やかな笑顔が返ってきた。

 レオニスも反対側の椅子に腰かける。すると、控えていたメイドたちが手際よくお茶の用意をはじめた。
 テーブルの上にはいちごのショートケーキとチョコレートブラウニーの二種類のケーキと、クッキーやマフィンが並ぶ。

 レオニスが用意された紅茶を口に含んだ。そしてカップを置き、グリセアラを見つめてくる。

「王宮での暮らしはどう?」
「毎日楽しく過ごしております」

 グリセアラが答えると、レオニスが「うーん」と唸った。

「そういうのではなくて、もっと具体的になにをしているか知りたいんだ」
「えっ、あ、えっと、刺繍をしております……。申し訳ございません、レッスンはほとんどしておらず……」
「レッスンを止めるように言ったのは私だよ。聞いてない?」

 聞いてはいたけれど、本当だったのかとグリセアラはちょっとだけ驚いた。

「侍女から聞きました。でも、その、なぜですか?」
「うん? レッスンを止めたの? 必要ないからだよ」
「必要ないとは……?」
「結婚後の政務関係は私がやる」

 グリセアラは言葉に迷う。それが不安だからグリセアラに知識を詰め込もうとしていたわけで……。

「心配?」
「えっ! いえ、なにがでしょう?」

 すっとぼけてみたが、レオニスは愉快そうに両の口角を持ち上げる。そして、ティーカップを手に持ち、鼻を近づけて香りを嗅いだ。

「私が政務を行うことが」

 グリセアラは胃が痛かった。こんな拷問のような問いかけがあるのかと。
 どう答えるのが正解なのか、さっぱりわからない。

「心配だなんて。レオニス様は、今もお仕事をされているとお伺いいたしましたし」
「仕事というより、陛下が気づかなかった汚職を綺麗に精算しているだけだね」

 それを仕事と言うのでは?
 グリセアラは内心首をかしげた。

「そんなことより」

 レオニスがテーブルに両肘をつき、組んだ手の甲の上に顎を乗せ、紫の瞳をキュッと細めて笑う。

「もっと君の話を聞かせてくれ」

 グリセアラはしどろもどろになりながら、今はどんな刺繍をしているのかだとか、家ではどう過ごしていたのかを話した。

 そうして、気がつけばお開きの時間になる。

「部屋まで私にエスコートをさせてくれる?」
「え、はい。よろしくお願いいたします」

 なんだかんだで、お茶会は楽しかった。
 そして、部屋の前で分かれる間際に、次の約束もしてしまった。次のお茶会は三日後。同じ時間に、同じ場所で。

 そうやって、何度も逢い引きを続けていくと、わかったことがある。
 レオニスは、とても頭がいい。
 愚王になるとはなんだったのかと思うほど、賢さが備わっている。
 王宮の内部改革は進んでいるようで、最近はとある大臣が国庫の金を横領していたと大事件になった。もちろん、その大臣は職も爵位も剥奪された。

 他にも、民衆を困らせていた窃盗団を王室騎士団が検挙したと耳にした。しかも、その指揮を取ったのがレオニスだと。

 ここ最近は、レオニスのいいウワサしか聞かない。評判もうなぎ登りで、国王陛下は毎日ご機嫌だと侍女が教えてくれた。

(レオニス様は、いったいどういうおつもりで)

 そんなことを思いながら、気分転換に庭園を散歩していると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。レオニスだ。

 声をかけようかと思ったが、もう一人分、愛らしい高い声が聞こえたのに気づき、グリセアラはピタリと止まる。

「最近の殿下のウワサ聞きましたよぉ~。どうですか? 私を婚約者に。建前がとおっしゃるなら、側妃でもいいですよ?」

 グリセアラの足が縫いつけられたように動かなくなった。心が重たく、そして、言いようのない嫌な気持ちがじわじわと広がっていく。
 この気持ちはなんだろうか。

(レオニス様は、なんて答えるのでしょう……)

 立ち聞きなんてよくないとわかっているのに、足が動かない。
 すると、今まで聞いたこともないような低い唸るような声が聞えてきて、グリセアラはパッと顔をあげる。

「は?」
「えっ」
「発言を許した覚えはない。だれに向かって口を利いている? おまえは、レリート家の娘だったな。父は息災か? 賭博に入れ込んでいるようだが、色仕掛けでもしてこいと言われたか?」
「なっ!」
「おまえみたいな女を婚約者にするわけがないだろう。それに、私は側妃を取るつもりはない。おまえみたいなのに当たったら大層面倒だ」

 キレッキレの毒を吐いたのはレオニスだった。

「許可もなく発言したこと、今回は不問にしてやろう。だが、次はない」

 会話が終わったのだと気づいたが、グリセアラは帰るか迷っておろおろと足を動かし、結局その場にとどまった。足音が聞こえてきて、思った通りレオニスと鉢合わせする。

 グリセアラを見たレオニスはうれしそうに表情を和らげた。紫の瞳に、甘い色が滲んでいる気がする。

 かぁっと頬に熱が上った。なんだか、心臓がドキドキする。

「グリセアラ? 散歩かい?」
「はい。そ、それと、今会話を聞いてしまい……それをお伝えし、謝罪しようと思って待っておりました」

 レオニスがきょとんとグリセアラを見て、やがて小さく肩を震わせる。それはどんどん大きくなっていき、レオニスはついに「はははっ!」と声に出して笑い出した。

 そして、眩しそうに目を細めて、爆弾発言を落とす。

「本当に、かわいいなぁ」

 グリセアラは目を真ん丸にしてレオニスを見つめた。

「あぁ、言ってしまった。まぁいいか。かわいい、かわいいよ。私のグリセアラ」
「え、えっ、れ、レオニス様?」
「うん? 式はいつにしようか?」
「ど、どうなさったのですかっ!?」

 豹変……というわけでもないが、皮を一枚脱ぎ捨てたかのようなデレデレっぷりだ。
 さっきの声と同一人物かと思うくらい、響きが甘い。
 レオニスが小首をかしげると、プラチナブロンドの髪がサラリと揺れる。

「どうもしていない。思っていたことがついに口を出てしまっただけだよ」

 あっけらかんと言われて、グリセアラのほうがたじたじになる。
 恥ずかしいことを口にしているのはレオニスなのに、どうしてグリセアラのほうが羞恥を感じているのか。

「レ、レオニス様は、どうして私を選んだのですか? 私は取り柄もありませんし、容姿だって普通です」
「君はかわいいよ」

 即答され、グリセアラはかぁっと顔を赤く染めた。

「それに、君にはいいところがたくさんある」
「そうでしょうか?」
「自分では、気がつかないものだよ」

 そういうものなのだろうか?
 グリセアラが答えに詰まっていると、レオニスから話題をふってくる。

「最近レッスンをはじめたんだろう? 大変じゃないかい?」
「いえ。やっぱり、王太子妃になるのでしたら、もっと洗練された所作や潤沢な知識を身につけたく……」

 話している途中で、レオニスがうんと優しくグリセアラを見ているのに気がつき、グリセアラの語尾が小さくなっている。

「あ、あの。私、そろそろ戻りますね」

 その場で一礼をしてから、グリセアラは足早にその場をあとにした。

(れ、レオニス様が、甘すぎる……っ。どうなさってしまったのかしら!?)

◇◇◇

 去って行くグリセアラを見ていたレオニスは、苦笑しながら肩をすくめた。

「あぁ、逃げられてしまったな。小鳥はもっとゆったりと鳥かごに入れるのがいいか」
「発想が怖すぎますよ。完全に常軌を逸した人の思考です」

 控えていた従者が素早くツッコミをいれる。

「かわいいだろう? 私のグリセアラは」
「殿下がお好きそうな方ですね」

 はいと言っても、いいえと言っても不機嫌になることがわかっていたので、優秀な従者は模範解答をした。

「でも、そのためにここまで手の込んだことをせずともよかったのでは?」

 レオニスは後ろで手を組みながら、ゆったりと庭園を歩く。

「父上は傲慢だからな。必ず基盤固めに動いた。財力も権力もより多く持っている家の令嬢と婚約させられただろう」
「……」
「ふふ。でも、私のほうが一枚上手だった。父上は今、大層機嫌がいいそうだ。私がはじめからグリセアラと婚約がしたいと言ったのなら、こうはいかなかっただろう。それに、愚か者の烙印のおかげで、自由に動いても許される。愚か者も悪くはないものだよ」

 紫の瞳が妖しく煌めく。
 それに従者はほんの少しだけ畏怖の念を覚えた。
 この世のすべてを見透かしていそうな目をしているからだ。愚王だなんてとんでもない。本当の賢王は、愚者さえも演じてみせる。自分の手の中で、人形劇を楽しむかのように、演者たちを自由に動かしてしまう。

「……グリセアラ様は、殿下の初恋でしたっけ」
「そう。街中で高位貴族の馬車が事故を起こしたことがあった。馬も貴族も怪我なんてなく、民間人が骨折に出血と大怪我をしていた。貴族はどうしたと思う? 民間人をゴミくずと罵って弁償を要求した。国は民がいるから成り立っている。そのことにも気づけない大馬鹿者だったのだ」
「……」
「そのときに居合わせたのが、グリセアラだよ。彼女はまだ幼いながらも必死に考えて、民間人を助けて医師まで呼んで、同じ貴族が悪かったと治療費まで持った。彼女はなにも関係がなかったのに」

 その日を思い出しているのか、レオニスは空を見上げて眩しそうに目を細めた。

「つまらない世界だと思っていた人生に、唯一色がついた。その後は──」
「知っていますよ」

 あれこれと策を巡らせて、結果的にレオニスは思うままの未来を手にしてしまった。

(恐ろしいお方だ……)

「グリセアラ様にはお伝えしないのですか?」
「言ったら怖がらせるかもしれないだろう?」
「あ。自覚はあったんですね」

 人の心が残っていたことに安堵する。

「茶会は明日だったな。グリセアラが好きそうな図案を手に入れたんだ。喜んでくれるだろうか?」

 恋に悩む姿は年相応に見えるので、ずっと恋に悩んでいてほしいなどと思ったことを、従者は決して口にはしないと決意する。

 一方、部屋に戻ったグリセアラは、自分のベッドで枕に顔を埋めて悶えていた。

(心臓が、変だわ! あんなに嫌だったはずの結婚なのに……)

 レオニスのあの眼差しを思い出すだけで、ベッドの上を転がりたい気持ちになる。
 グリセアラは枕から目だけを出し、そんなまさかと思いつつも、小さな声で自分に確認するようにつぶやく。

「わ、私……レオニス様のことが、好きなのかしら」

 声に出すと、より一層そんな気がしてくる。
 けれども、相手は気まぐれでグリセアラを選んだにすぎない。それなのに、恋だなんて──。

「む、虚しいわ。でも、お役に立てるように、ちょっとでも頑張りましょう」

 ──そう思っていたのだが。

「グリセアラ、愛しているよ」

 真っ白のタキシードに身を包んだレオニス様が、愛をささやく。
 それがなんだか照れくさくて、でもくすぐったい。
 結婚までに紆余曲折はあったが、今こうして溢れるほどの愛を注がれ、文字通り溺れそうになる幸せな日々を送っている。

「私も、愛しております。レオニス様」

 グリセアラは真っ白のウェディングドレスに身を包みながら、今までで一番の幸福な笑みを零したのだった。