その日の私は、16年間生きてきた中で一番不幸だと言えたかもしれない。
「な、な、なっ……」
溢れそうになった悲鳴を、両手で押さえ込んでかき消した。
本棚に背中をぴったりと張り付けて、嫌な鼓動を響かせる心臓に右手を当てる。
待って、わからない。
なにが起きたのだろう。
本棚の影で、艶かしくメイドと唇を交わし合っているのは間違いなく、私の婚約者だ。
アドリアン・ベルナルト。
ベルナルト伯爵家の嫡男だ。
十歳のときに両親が決めた、私の婚約者。サラサラの茶髪と、丸っこい目が特徴の、整った顔立ちをしている人。
婚約が決まったときは、仲良しの令嬢友達に羨ましがられたりもした。なかなか格好いいらしい。
けれども私は、特別好きという感情を抱いたことはなかった。
どうやら私は、令嬢というには少しお転婆すぎる性格のようで、女は黙ってほほ笑んでいればいいという考えのアドリアンとは相性が悪かったのだ。
それでも、家同士の婚約だから、私は私なりに努力をしてきた。
好きになれるように。
好きになってもらえるように。
それなのに。
どうして。
唇を強く引き結び、ぎゅうっと拳を握りしめる。
私の覚悟も、努力も、私の家族さえも、蔑ろにされているような気がした。
私が気づかなかったら、このまま結婚していたの?
結婚したあとも、ずっと影で笑いながら、こうして不貞を繰り返していたの?
あいつはバカな女だと、そう、心の中で嘲笑っていたの?
そう考えたら、今度は腸が煮えくり返りそうなほど、腹が立ってきた。
たしかに私の家は、そんなに権力のある家ではない。ごくごく普通の、伯爵家だ。
それでも、アドリアンの家に資金提供をできるくらいには力関係がある。
だというのに、あの男は、婚約者をほったらかしてこの体たらく。
こんな男の元に嫁ぐなんて、絶対に嫌!
背中を張り付かせていた本棚から背を離し、そぉっと、本棚の影から顔を出す。
人が来ないと思っているのか、こちらに気づく様子はない。仲睦まじそうにくすくす笑い合っては、唇をくっつけている。
婚約者が来ると知っていながら、自分の家の書庫で逢引するなんて、けっこうな度胸がおありではなくって?
むっとしながらも、上から下までじっくりと相手のメイドを眺める。
大人の色気が漂う人だった。胸が大きく、腰がくびれ、お尻も大きい。
ちょっと危険な香りのする人、というのはああいう人のことを言うのかもしれない。
長い灰色がかった髪が綺麗な横顔を覆う。
私はその人の特徴を目に焼きつけた。髪型、髪の色に目の色。あ、口元にほくろがある。
じっくりと心に焼きつけたら、そっと、足音を立てないように書庫をあとにした。
あんな人と結婚するだなんて、冗談じゃない。
もともと、好きで婚約したわけでもない。
婚約者をほったらかしてほかの女にうつつを抜かす男の家に嫁ぐのも、その家に私の家が資金提供するのも、お断りだ。
今すぐ突撃して問い詰めたい気持ちを、ぐっと堪える。
今は証拠がない。たとえ現場を押さえたとしても、していないと言われてしまえば、それで終わりだ。それどころか、嘘つき女のレッテルを貼られてしまうかもしれない。
いいや、もしかしたら、開き直って愛人のひとりやふたり、認めるのも女の務めだと言われてしまうかもしれない。
貴族に愛人がいるという話は、風の噂で耳にしたりするもの。
お父様にはいないと思うけれど……。きっと。
こうなったら、もっと決定的な、言い逃れのできない証拠が必要だ。
婚約破棄するのに相応しい証拠が。
近くを通りかかったメイドに、用事ができたから帰ったと伝えてくれるよう頼み、私は不貞を働く婚約者の家をあとにした。
その日から、私は着実に婚約破棄できる証拠を集めていたのだけれど──。
ベルナルト伯爵家で開かれた、パーティー。婚約者の私が出席しないわけにもいかず、参加したのはいいけれど、なぜか出迎えもなければエスコートもない。
あんまりな仕打ちにびっくりしていると、パーティーの主催者であるベルナルト伯爵夫人が、クスッと笑って私を見た。
息子さんの婚約者にすることですか?
ムカムカしていると、ワイングラスを手に、ようやく婚約者のアドリアンが現れた。
かと思えば、私を見て、気持ち悪いものから離れるように一歩距離を取った。
そして、ニヤリと笑うと、高らかに宣言した。
「エリル・リンデローナ。おまえに婚約破棄を言い渡す」
なぜか、したり顔でふんぞり返る婚約者殿。
そして、その後方に、たくさんのメイドに混じりながらも、こちらを見ている例のメイドが。私を見て、ふふんと勝ち誇ったように笑みを浮かべたように見えた。
愛人の立場では満足できなかったのだろうか。
だから私に向かってそんな顔をするのでしょう。
ざまあみろと、そう言いたげな顔。
悔しさと、怒りで、目の前が真っ赤に染った。
貴族として、ここまでコケにされて黙っているわけにはいかない。
本当は、大事にするつもりなんてなかった。
こっそり、ひっそり、でも確実に婚約破棄できれば。
でも。
そっちがその気なら、私だって黙ってない。
やられっぱなしでしくしく泣くようなしおらしさを、私は持っていないみたいなの。
まぁ、私のそんなところが、きっと気に入らなかったんでしょうけど。
カツンっと、ヒールの音を響かせた。
挑戦的に、でも真っ直ぐに、婚約者殿を見据える。
「わたくしも、お話があります」
「……言い訳か? はっ、言い訳など聞きたくない」
「いいえ。アドリアン様が、とあるメイドと不貞を働いている証拠です。それと、我が家からの提供資金をすべて、そのメイドへと横流ししている証拠も」
ニコリと微笑むと、婚約者殿の表情が固まった。
「アドリアン様のお家の帳簿、拝見させていただきました。ご安心ください、お父上様には許可をいただいておりますの。そして、その結果、不審な用途不明金の存在がわかりまして。どうやら、我が家の資金はすべてそれに消えているようなのです。どういうことでしょう? 疑問に思い、調べたところ──」
ゆっくりと、両方の口角をつり上げる。
婚約者殿は死の宣告を待つかのように、顔を真っ白にしたまま震えていた。
まぁ、そんな。
死神に会ったような顔をしなくても。
「アドリアン様がなにやら多額のお金を、アクセサリーや宝石に変えていたようでして。あらまぁ、どんな素敵な宝石を買ったのでしょう? わたくしにプレゼントかしら? と思い、調べていきますと、どこでどんなアクセサリーを買ったかを突き止めることができまして。ええ、そうですね──ちょうど、そこのメイド……」
ギクリと、さっき私を見て笑っていたメイドが肩を揺らした。
「あなたの身につけているネックレス、それと、まったく同じものを、アドリアン様が買っていらしたようですの」
華やかなパーティー会場が、水を打ったように静まり返る。
青ざめたまま細かく震えるメイドを見ながら、私は笑みを深め、カツンッとヒールを鳴らしながら一歩前に出た。
この靴音が、死神の足音に聞こえているかしら?
「そちら、一介のメイドが買えるような代物じゃありませんね? どこで、どうやって手に入れたのか、説明していただけます?」
メイドがガクリと膝から崩れ落ちて、その場でめそめそと泣き始めた。
それを見たアドリアン様が、カッと頬を赤らめて私を人差し指で示した。
「〜ッウソだ! この女はウソをついている!」
「まぁ、嘘つき呼ばわりですの? 本当の嘘つきは、どちらなんでしょうね?」
クスリと余裕たっぷりに笑ってみせると、元婚約者殿は顔を青くしてブルリと身をふるわせた。
私がまだ奥の手を隠し持っていると踏んだのだろう。
アドリアン様は驚くような身のこなしで、私の足もとに跪き、その場で頭を下げた。
「す、すまなかった! あの女に脅されたんだ! 金がほしいと!」
そして、メイドを切り捨てる。
アドリアン様に指さされたメイドは、驚愕に目を見開き、顔を引きつらせながら怒鳴り返してきた。
「なっ!? アドリアン様が私を愛してると言ったんでしょう!? その女と婚約破棄したら、私を養子としてどこかの貴族に迎え入れるから、そうしたら結婚しようと言ってくれたじゃありませんかッ!」
「……だそうですよ?」
「ち、違う……デタラメだ! 本当だ、信じてくれ。エリル」
「本当だろうと嘘だろうと、どっちでもいいんです」
フンっと鼻を鳴らし、すがりつこうとしてきたアドリアン様の手を払いのける。
アドリアン様はショックを受けたような顔をした。
浮気をしておきながら、なぜ私が許すと思っていたのか疑問である。
私は腕を組んだまま、跪いているアドリアン様を冷たく見下ろした。
「あなたと私は家同士の結婚。その我が家を軽んじるような行いをしたあなた様と結婚する気はありません。婚約は破棄させていただきます!」
「……ッ、このっ、おまえのそういうとこが嫌いなんだよっ!」
「あらそうですか。おあいにくさま。わたくしはこういう性格ですの。それではごきげんよう」
ふっと見下すようにほほ笑んで、くるりと背を向けた。
そのまま、パーティー会場をあとにする。
元婚約者様は狂ったように叫んでいた。物に当たっているのか、ガラスが割れるような音が聞こえる。まぁ、もう関係ないけど。
迎えに来ていた我が家の馬車に乗りこみ、バタンッと扉が閉まったと同時に大きく伸びをした。
「はーっ! やっと解放されたわ! 清々しいこの気持ち、ちょっと癖になりそうね」
腹立たしい男の情けない面を見るのは、けっこうな快楽だった。
危険な癖ができてしまいそう。気をつけないと。
私はやり切った爽快感で、家までの道のりを鼻唄を歌いながら過ごした。
その後、アドリアン様は父上でもあるベルナルト伯爵に大層怒られたそうで、根性を叩き直すために異国の地へと送られたそう。供もろくにつけなかったようなので、最悪戻って来なくてもかまわないという意思表明かもしれない。
そして、私はというと……。
「……あの、ありがたい申し出ですが、爵位が、あまりにも釣り合わないと思いますの」
私の引きつった笑いをものともせず、目の前にいる男はほほ笑んだ。
「気にしなくていい。公爵だろうと伯爵だろうと、大した違いはない。貴族は貴族だろう? 父と母の了承は得ている。早急だとは思ったが、私と同じような男がいるかもと思い、こうして会いに来た」
あのパーティー会場でどういうわけか、私に一目惚れしたなどと言う、次期公爵様から求婚を受けている真っ最中だったりする。
黒髪に碧眼。彫刻のように美しい顔に、スラリとした手足。私の元婚約者様が霞んでしまうような美貌と人気を持つ人だ。
社交界で結婚したい憧れの人として名前が挙がるような有名人。
実際、パーティーではいつも人に囲まれている。
婚約者志望が殺到しているはずなのに、どうして私が?
そして、私には婚約の申し出はこれっぽっちもありませんよ?
どうやら、社交界で怖がられているようで。
「すぐにとは言わない。まずは私を知るところから始めてみてくれないだろうか?」
元婚約者様とは違った、誠実な態度。そもそも、全身からにじむ空気そのものが違う気がする。清らかさが具現化して見えるというか……。今思えば、元婚約者様は浮ついた軽薄な空気をしていたな。
などと考えていると、綺麗な顔が近づいてきて、じぃっと目をのぞきこまれた。
驚きのけぞると、次期公爵様はクスリと笑いながら肩をすくめる。
「私がいるのに違うことを考えているとは、妬けてしまうな」
歯が浮くようなセリフも様になっているのがすごい。
「えぇと、そうですね。私も、結婚適齢期にも関わらず婚約者もいないことに焦りを感じていましたから、嫌なわけではないのですが……。家同士のこともありますので、互いの両親も交えつつお話するのでどうでしょうか?」
次期公爵様はうれしそうに笑った。
「もちろん。そのつもりでいるよ」
そうして、あれよあれよと婚約話はまとまり、私は実家の伯爵家よりもずっと資金力も権力もある公爵家に嫁ぐことになった。
父と母が「エリルがこのまま婚約もできなかったらどうしよう」と悩んでいたのを知っていたから、心底ほっとしている。娘が傷物になってしまったかもしれない、あんな男を選んだ自分のせいだって、すごい罪悪感を感じていたみたいだったからね。
それにしても、本当によかった、あんな浮気男と結婚しなくて。
今思えば、浮気してくれてありがとうという気持ちさえある。
おかげで私は、私のこの性格を好きだと言ってくれる人と結婚できる。
私のとなりで、私が恥ずかしくなるくらい愛おしそうに私を見つめる次期公爵様に、照れつつも笑い返した。