「なんで、どうしてシルカの名前が……」
契約書に書かれている名前の筆跡も、間違いなくシルカのものだった。
美しいけど力強い文字は、女学院で一緒に学ぶ中で何度も見たものと同じだ。
一枚の紙を握ったまま、床に散らばった本の中に埋もれるリリアは、部屋の外から話し声が聞こえることに気づいてハッと顔を上げた。
片付けないと。
首を動かして左右を見る。床にばら撒かれた本。部屋の惨状を確認して、慌てて立ち上がろうとするけれども、リリアが動くよりも速く扉が開いた。
「それでボス。明日のことなんですけど──って、リリアサン?」
「あ? リリア? 何して……」
部屋に入ってきたシーカーとグレイが、部屋の中にいるリリアと、その手に握られているものを見て沈黙した。
グレイが黙ったまま長い足で近づいてきて、リリアの手から紙を乱暴に奪い取る。そして、紙とリリアを交互に見て、重々しく口を開いた。
「見たのか」
威圧するような声色に、リリアは肩を震わせた。見てはいけないものだったのだと、すぐにわかる。
冷たさを感じる声音に怯みながらも、リリアはしっかりとうなずいた。
「……み、見ました」
グレイが、高圧的に目を細める。
ピリピリとした張り詰めた空気の中、リリアは床に座り込んだままグレイの顔を見上げた。
「どういう、ことですか」
揺らがないように、真っ直ぐと。睨み据えるような、それでいてすがるような瞳で、リリアはグレイを見た。
「私は、売られたんじゃないんですか? どうして……、シルカの名前が、ここにあるんですか」
「……」
「ボス!」
リリアの追求の言葉を、グレイは面倒くさそうなため息でかき消す。自分の黒い髪を雑に掻いて、そのまま紙を自分の懐にしまい込む。
「おまえに話すことは何もねェ」
「……っ、わ、私のことなのに、どうしてですか」
泣きそうに呟いて、リリアは口を閉ざした。
唇を震わせ、うつむいたまま拳を握り締める。
「……たく、めんどくせェな。確かに、おまえの王子様はここに来た。したたかで面倒な女だったぜ」
「ボス、いーんですか? 話しちゃって」
「しかたねェだろ。泣かれてもめんどうだ」
「甘いですねぇ」
リリアの隣にシーカーがしゃがみ込む。散らばった本や紙を、淡々と片して、チラリとうつむいたままのリリアに視線を向ける。
「リリアサン、そんなとこ座ってちゃ汚れますよ。ほら、立って」
差し出された手に無理やり立たされて、リリアはハッとして床を見る。
「あ……、ご、ごめんなさい。片付けさせてしまって」
「いいんですよ、このくらい。ほんと、バカな人ですねぇ」
リリアはソファに腰掛けて、黙って膝の上の自分の手を見つめた。
「あの、私の保護って、どういうことですか?」
「この話は終わりだ」
「納得できませんっ」
リリアは睨むように顔を上げる。自分の椅子に座っていたグレイは、なんの感情もないような瞳でリリアを見た。
「知って、どうする」
「それは……」
「おまえは国外追放になった。それだけだろ」
ぐぐっと言葉を詰まらせて、リリアは深くうつむいた。
きっと、何を聞いたとしても、答えてはもらえない。
「……わかりました」
「……明日のこと、シーカーに聞いとけ」
リリアは小さくうなずく。
「はぁ、俺に丸投げですか。まあいいですけど。じゃあはい、リリアサン。とりあえずこれ読んどいてください」
リリアはシーカーから紙を受け取って、連れられるままに部屋を出る。
後ろ髪を引かれる思いで振り返ったが、グレイは紙に視線を落としていて、リリアのことは見ていなかった。
明日の最終調整だと、リリアはシーカーと共に職人たちの元を回った。身支度の手伝いに何人かはついてくるらしいが、ほとんどの人は街で留守番だ。
リリアに魂を込めた自分たちの作品を預けて、じっと帰りを待つ。
「じゃあリリアチャン、頑張ってきてね! 大丈夫、お人形さんみたいに可愛いもの」
「はい、ありがとうございます」
リリアは微笑んで頭を下げた。
確認を終えて、宛てがわれている家に戻る。
すっかりと、日は暮れてしまっていた。
「シルカに、聞かないと」
どういうつもりなのか。何を考えているのか。
きっと、本人に聞かなければ、リリアの望む答えはもらえない。
ならば、直接会って聞けばいい。
けれどもそれは、今ではないとも思った。
リリアチャン、とそう言って笑っていた人たちの顔を思い浮かべて、リリアは目を閉じる。
ゆっくりとまぶたを押し上げて、リリアは部屋を出た。
月明かりが、街の中を照らしていた。
夜特有の静けさと、少し冷たい空気が流れている。
建物の入り口から外へと出たリリアは、歩きながら空を見上げた。
「どこに行く?」
リリアは驚いて、声のした後ろを振り返った。
建物の壁に背中をあずけ、リリアをじっと見ている青い目がふたつあった。
「ボス……」
「逃げようとしてもムダだ。この街は壁に囲まれてる。それ以外は山だ。諦めろ」
「……逃げようなんて、思っていません」
リリアは力なく笑う。
信用ないのだなぁと思うと、少し悲しくはあったが、同時にそれもそうかと納得した。
グレイにとってリリアは、保護対象にしかすぎないのだから。
「逃げるためじゃねェなら、なぜ外に出た?」
「眠れそうにないので、外の空気でも吸おうかなと……」
グレイは黙って目を細めた。
リリアはその眼差しを受け止めて、困ったように微笑みながら小さく肩をすくめる。
「シルカのことは、気になります。でも、何か、理由があったんだと思います。そうしなければいけない理由が。それが何かはわからなくても、何か理由があるんだとわかっただけでも、嬉しいです。だから、今すぐ問いただそうとは考えていません」
知りたくないわけではない。いつか必ず、聞きに行こうとは思っている。けれども。
「それに……」
リリアは、顔を上げ、真っ直ぐグレイに向き合った。
「ぱ、パーティーがありますから」
「……」
「たくさんの人たちが心を込めて作ったものを、任されたんです。その思いを、踏みにじるようなことは、できません」
グレイは目をまるくしてリリアを見ると、ふっと息を吐いて小さく笑った。
「ばァか」
「……ど、どうしてですか」
「こんな街のことなんてほっといて、自分のことだけ考えりゃァいいだろ」
「ええ、ダメですよ。だってここは、ボスの大切な街ですよね?」
「……」
「私に優しくしてくれていたのが、そういう契約だったのだとしても。私にはまだ得意なことが見つかっていないだけだって、そう言ってくれたボスの言葉が、嬉しかったんです」
リリアはくるりと背を向ける。
月明かりが照らす街を見て、目を細めて笑うと、金色の美しい髪を翻して振り返った。
たくさんの幸せを詰め込んだ、草原いっぱいに咲き誇る花のような顔をして、グレイを見る。
「私も、この街が好きなんですよ」
小さなひみつを打ち明けるように、リリアは悪戯に笑った。紫色の瞳が、月明かりでキラキラと輝く。
目を見張ってリリアを見ていたグレイは、深く息を吐き出した。ガシガシと乱暴に自分の髪を撫でて、壁から背を離す。
「っとに、どうしようもねェな」
どこか、諦念にも似た響きを持っていた。
グレイはゆっくりとリリアへと歩み寄る。
「リリア」
一歩、さらに距離が近くなる。
すぐ目の前に立った男を、リリアは首をかしげながら見上げた。
グレイの指先が、優しくリリアの前髪をかき分ける。そっと、撫でるような手つきで、リリアの髪を耳にかけた。
「ボス……?」
「あの国には帰るな。いいな?」
グレイが身をかがめる。リリアの顔に影が落ちた。
額に、冷たい唇が触れた。
一瞬だけ、やわらかくくっついて、すぐに離れる。
唖然として固まるリリアを見て、グレイはニヤリと口角を上げて笑うと、そのまま指を滑らせてリリアの頬を撫でた。
「じゃあな。とっとと部屋に戻れよ」
そう言って背を向けると、ひらりと片手を振って去って行く。
残されたリリアは、石像のように固まって、やがてその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。やけに熱い額を両手で押さえる。
「……っ、え、えっ、なに? 今の……」