リリアはぐったりとベッドに身を沈めた。
そんなリリアをを労わるように、グレイが指の背でリリアの頬をなでていく。本当に触れているのかと思うほど優しい手つき。
とっておきの宝物を愛でるみたいに、リリアに触れている。
リリアは緩慢な動作で口をひらき、舌ったらずに声を出す。
「……ぼす……」
主人に甘えているような声だった。「もっと」とせがむみたいに、リリアはグレイを呼ぶ。
呼ばれたグレイは苦笑いをこぼし、体を倒すと、リリアの額に優しくくちびるを寄せた。
わざと軽めのリップ音を立てて、離れる。
「悪りィが、どうやら、そう理性あるタイプじゃないっぽいんでな。あんまりその気にさせんじゃねえよ」
「その気……?」
リリアはぼんやりしたまま、グレイに視線を向ける。
視線と視線が絡みあった瞬間、グレイは考えるように一瞬視線横に流し、またリリアに向き直る。そして、ニヤリと口端を上げた。
「ぼす……?」
グレイはリリアの右手を恭しくとった。その小さな手のひらに、自分の唇を押しつける。
そのままリリアの手のひらを食むように、軽くついばんだ。
「……ッ」
リリアの指先が小さく震える。逃げようと手を引いても、ビクともしない。
戸惑っているうちに、また手のひらに走る、くすぐるような感覚。それと一緒にやってくる、背筋がゾクリとする甘いしびれ。
「んっ……」
鼻から抜けた甘い声が出た。
熱の混じった吐息が、部屋の雰囲気を変えていく。
グレイはほんのり頬を赤らめるリリアを見て、薄く笑みを浮かべた。瞳の奥に、ギラギラとした光を宿しながら。
「こういうこと。……するか?」
不敵に細まる青い瞳が妖しい色気を放っている。
なんとなく、まだ踏み込んでいけない気がして、リリアは小さく首をふった。
「し、しない、です……」
すぐに喉の奥で笑う声がして、リリアの指先にそっと口づけが贈られる。
そうしてようやく、右手が解放された。
リリアは自分の右手を守るように胸もとに抱き込んで、おそるおそるグレイを見た。
宝石のような青い瞳が、面白がるようにリリアを見下ろしていた。
「そりゃァ、残念だ」
たいして残念とは思っていない口調でグレイは言ってのけて、再び体を倒してリリアにくちびるを寄せる。
「ぼ、ボスっ!」
リリアが軽くグレイの体を押し返すと、ピタリと止まる。そうして、試すような瞳でリリアを見た。
「嫌か?」
リリアは言葉に詰まった。
「嫌がることはしねえよ。嫌か?」
リリアはしばらく沈黙して、やがて、小さく首を振った。
「いや、じゃ……ありません……」
湧き上がった羞恥にかすかに涙を浮かべながら、リリアはそう口にした。
グレイのくちびるがゆるやかに上がって、満足気な表情を浮かべる。
軽くくちびるが触れ合って、やがて何度も角度を変えて交わっていく。苦しくなれば少し離れて、リリアの呼吸が整うとまたやってくる。
そうして何度もキスをして、少しだけ慣れてきたころ、リリアはグレイの顔を見つめて違和感があることに気づく。
じっとグレイの顔を見ていると、名残惜しそうにしながらくちびるが離れていった。
「どうした?」
乱れた呼吸を整えて、リリアはグレイの顔を見る。
リリアはグレイの目の下をなでながら、かすかに首をかしげた。
「ぼす、疲れてますか……?」
グレイは虚をつかれたように目を丸くして、すぐに苦笑いを浮かべる。
「最近少しバタバタしてたからな。まァ、大したことねえよ」
「あまり寝ていないのなら、眠ったほうがいいですよ」
じっとリリアを見下ろしていたグレイは、ニヤリと意地悪く笑った。
「添い寝でもしてくれんのか?」
「……え」
ゴロリと、グレイはリリアの隣に寝転んだ。そして、リリアの体を引き寄せ、細い首筋に顔を埋める。
「えっ! あ、あのっ、寝るのなら自分の部屋のほうが……」
「自分の部屋じゃ寝れねェよ」
「え……?」
グレイはリリアを自分の胸もとに抱き込んで、囁くように口にした。
「おまえがなかなか目ェ覚まさねぇから、寝れなかったんだよ。目ェ離した隙に、惚れた女が死ぬんじゃねえかってな」
リリアはゆっくりと口を閉ざした。そうしてたくさんの言葉を飲み込む。
自分の死が、誰かを苦しめる。
それは、リリアがあまり、考えたことのないことだった。
嬉しいような、悲しいような。
リリアにはまだ、理解できない感情の渦がやってくる。
グレイの手が、リリアの髪を梳くようになでていった。そうして、リリアの耳元に顔を寄せ、声を響かせる。
慈しむような、愛おしむような、懇願するような。
そんな切ない声を。
「……リリア」
リリアはそっと、グレイに寄り添うように身を寄せた。胸元に頭を寄せて、かすかに聞こえる心臓の音に耳をかたむける。
「……ここにいます。それなら、少しは眠れそうですか?」
「あァ……」
グレイはリリアの体に腕を回したまま、小さく息を吐いた。リリアをあやすように、リリアの髪を弄っていたが、しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえはじめる。
リリアはグレイの寝顔を眺めて、熟睡できていることにほっと息をついた。
そうして、リリアも同じように眠ろうと目を閉じてみるが、眠気はやってこない。それもそのはず。リリアは何日もずっと眠っていたのだから。
することもなく、ただぼんやりとグレイの顔を見ていたリリアだったが、体が覚醒したと認識しはじめたのか、小さくおなかが鳴った。
キュルキュルと何度もリリアの腹は音を立てる。その音でグレイが起きてしまうんじゃないかと、リリアは必死におなかに力を入れて、その音を抑えようとした。
何日も食べもの口にしていないから、体が悲鳴をあげていた。それに、尿意もやって来た気がして、リリアはぐるぐると考える。
しばらく葛藤した末、リリアはグレイを起こさないように、そっとグレイの腕を外した。
そうして、体の欲が示すまま、お手洗いに向かい用を足すと、食べるものを求めて部屋を抜け出した。
「下、食堂になってるって、シーカーさん言ってたよね……。お水とかもらえるかな」
木製の階段を下っていくと、活気ある風景が見えてくる。丸いテーブルと、その周りを囲む椅子。楽しげな笑い声と、鼻の奥をくすぐる香ばしい匂い。
リリアが階段を降りきると、ざわっと店内が揺れた。
店の中の人たちみんなが、リリアに注目していた。
「……紫の瞳……」
「金の髪に、紫の瞳だ。本当にいたのか……?」
リリアは突然注目されたことに戸惑いの表情を浮かべる。
「え、あの、えっ……」
店中の人が、リリアを見ていた。ギラギラとしているような、恍惚としたような。まるで、神でも崇めているかのような、血走った目をしながら。
リリアが固まっていると、少しずつ人が近づいてくる。一歩、一歩、リリアに歩み寄っては、やがて我先にと駆け出した。
人と人がぶつかり合って、リリア目がけて突撃してくる。
見たこともない恐ろしい光景に、リリアは震えながら立ちすくんだ。
「ひっ……!?」
次々に人が押し寄せ、押し潰されそうになる。そんなリリアの手を、グイッと誰かが強く引いた。
そのままリリアを庇うようにして、店の外に連れ出してくれる。
リリアはわけも分からず、その手に引かれるまま走った。はじめはグレイかと思ったが、その背中に見覚えはない。短い髪と体躯から、男だということはわかった。
リリアをつかんでいる手には、真っ白の手袋がはめられている。
店を出て、大通りを走り、角を曲ってはまた走る。
「まって、待ってくださいっ……」
リリアが呼びかけると、男は人気のない小道に入り、リリアを背に隠して物陰に身を潜める。
リリアたちが走っていた道を、幾人もの人が駆け抜けていった。「女神がいた!」と、そう口にしながら。
リリアは小さく身を潜める。そして人が居なくなったことを確認して、そっと、助け出してくれた男の背中を見た。
「あの、ありがとうございました」
「いいえ、礼にはおよびません。久しぶりですね。聖女リリア様」
くるりと振り返った男は、少しズレていた眼鏡をクイッと押し上げてリリアを見た。
リリアは息を飲んで固まる。
男に、見覚えがあった。
その男は、リリアが国外追放となったときに、唯一追いかけて来てくれた人物だ。
リリアの母国の宰相である男、ルーザー・クヴィスリン。その男の遣いだと、そう名乗って、リリアに手を差し出した。
「どう、して……ここに……」
リリアは無意識に一歩足を後ろに引いた。
「ずいぶんと探しましたよ。ですが、無事に見つけることができて安心しました」
男は、真っ白の手袋がはめられた手を、リリアに差し出した。
「お戻りを。リリア様」
リリアは紫の瞳を大きく見開いて、その手を見つめる。そして、強ばった顔のまま、クヴィスリン宰相の遣いの男を見た。
「も、戻れません」
「このままここに居ることは良くないと、お分かりになりませんか?」
リリアは沈黙した。たった今起きた騒動を思い返して、瞳が揺れる。
あの人たちは、間違いなくリリアを捜していた。
シーカーが、リリアが女神だと噂になっていると言っていた。それを聞いたときは、こんなに大事になっているなんて思ってもいなかった。
このままグレイたちといたら、迷惑がかかってしまうんじゃないか。そう考えては、瞳が揺れる。けれども。
『あの国には帰るなよ、リリア』
そう口にしたグレイを思い出して、リリアはキュッと唇を引き結んだ。
一度深呼吸して心を落ち着けると、ゆっくりと顔を上げた。
「……お世話になっている方がいます。その方たちに黙って行くことは、できません」
まっすぐに、リリアはクヴィスリン宰相の遣いの男を見た。
クヴィスリン宰相の遣いの男は、深くため息をつき、かすかに微笑む。
「そうですか。仕方がありませんね」
「……ごめんなさい。助けてくださって、ありがとうございました」
頭を下げて、リリアは男の脇を通り過ぎようとした。
「手荒なことは、したくなかったのですが」
そんな、無機質な声が響いた。
リリアが振り返ろうとした瞬間、くらりと目の前が揺れた。体に力が入らなくなって、リリアはその場に崩れ落ちる。地面にぶつかる前、逞しい腕に支えられた。
「申し訳ございません。あまり、時間がないもので。あなたのためでもあるんですよ、リリア様」
真っ暗に染まっていく視界の奥で、そう、聞こえた気がした。