リリアは大きく目を見開いた。そうして、たった今言われた言葉を、何度も何度も頭の中で反芻する。
青い、透き通るような瞳が、リリアの出方をうかがっている。
何か言わなければと思うのに、何を言ったらいいのかわからない。
口に出すべき言葉を何度も考えて、そうして。
リリアはグレイと視線を合わせたまま、乾いた唇を舌で濡らし、そっと口を開いた。
声は、かすかに震えてしまっていた。
「え、と……。じょ、冗談、ですか……?」
グレイの形のいい眉がピクリと動いた。
青い瞳は細められて、いつもよりもいっそう鋭くなる。
「ぱ、パーティーのときは、恋人みたいにするって。でも、パーティーはもう終わってるんですよ。だから、そういうのは……」
リリアがそう言った瞬間、リリアの左右の頬に、大きな手のひらが触れる。両手で頬を挟まれて、グイッと、無理やり上を向かされた。
鼻先が触れそうなほど近くに、顔がある。作り物みたいに、綺麗な顔が。
「ゃ……ボス……」
「あァ、そうだよ。パーティーはもう終わってんだよ。本気で冗談だと思ったのか? 俺が冗談でそんなことを言うと?」
怒ってる。
ギラギラとした瞳が、リリアを突き刺す。
反射的に身を引こうとするが、がっしりとリリアの顔を押さえつけているグレイの手は、そうやすやすと外れそうにない。
「無理やり解らせたほうがいいか? あァ?」
グレイが顔をわずかに右に傾けて、目を細める。
青い瞳の中に、燃えるような熱情が灯っていた。ゆらゆらと妖しく揺らめいて、リリアの思考を絡めとる。
二人の距離が、ほんの少し、縮まる。
唇と唇が重なる、手前。
互いの吐息が触れ合うくらい近い距離で、グレイがジッと、リリアを見た。
「嫌がらねェのか」
「……っ」
青い瞳が、つっと細くなる。
「本当にしちまうぞ。キス」
かぁっとリリアの顔に熱が上った。
できたのは、ただ、小さく首を横に振ることだけ。
少しの沈黙のあと、ふっと、吐息だけで笑った気配がした。
ほんのわずかに空いていた距離が、ゼロになる。
唇を、少しだけ外れた場所。頬と唇の境目に、グレイの薄い唇が触れていた。
そのまま滑るように唇は耳に流れて、リリアの頬を挟んでいた手は、抱き込むようにリリアの頭の後ろに回っていた。硬い左腕がリリアの頭を抱え、小さな耳のそばでは笑うような吐息が響く。
あまりの近さに、リリアは目を回した。
「ばァか。しねえよ。無理やりなんざ」
「……はっ……ボス……」
ようやく、リリアは呼吸をした。
息を止めていたことも忘れてしまうくらい、青い瞳に吸い込まれていた。とろりとした、溶けそうな甘さの中に、揺るぎない確固たる意志を宿す瞳。
リリアにはあまりにも、魅力的に見えた。
「冗談じゃねェって、わかったか」
リリアはこくこくとうなずく。
リリアの頭を抱き込んでいないグレイの右手が、リリアの髪をそっと耳にかけた。
「まァ、すぐにどうこうなろうなんて、思っちゃいねェさ」
耳元で、くつくつと笑うような声が響く。
鼓膜に直接息を吹きかけられているみたいで、落ち着かない。
「けどなぁ……」
がぶりと耳に噛み付かれた。
リリアはビクリと体を震わせ、食われかけのウサギのように固まって獣の気配をうかがう。
「逃げられると思うなよ」
嘲笑うような声がかすめていった。
心臓が、爆発を起こしたかのように、うるさく響いている。
今起きた一瞬の出来事を、消化しきれない。
「ぼ、すは……」
「あ?」
「ど、どうして、私のことを?」
「好きになった理由が聞きてェってことか?」
「あ、あと、いつからとか……」
グレイが遠くを見るように目を細めて首をかしげる。
「あー。理由ねェ」
「な、ないんですか?」
「いや、おまえだったから、としか言いようがねェ」
リリアは目を瞬いた。
「最初は真面目で固くてめんどうなやつって思ってたな」
「うっ」
「それから、珍しい首輪をしてると思った」
「首輪……」
リリアは聖女の証に触れる。外れないチョーカーは確かに首輪みたいだ。
「あとは、バカでお人好しでたまに頑固で……気づいたら惚れてたんだよ」
「気づいたら……」
「ああ。好きになるのなんてそんなもんだろ」
リリアは自分の中にある気持ちをたどたどしく言葉にする。
「わ、私、好きがどういうのか、わからないんですけど。でも、ボスといると、変な気持ちになります」
「変?」
「し、心臓が、変になるんです」
頰を赤らめるリリアの体に、グレイの体重が一気にのしかかる。
潰れそうになりながら、後ろ向きにベッドへ倒れ込む。二人分の重みを受けて、ふわりと布団が羽根のように膨らんで舞った。
「ばァか」
「ぼ、ボス、重いですっ」
「ほんとに食っちまうぞ」
グレイはリリアの手を取り、見せつけるかのごとく、がぶりと指先に歯を立てた。
リリアはびくりと肩を跳ねさせ、逃れようと手を引く。
「ボ、ボスは、はじめて人を好きになったとき、どうやって気づいたんですか?」
リリアがそう問いかけると、グレイは気まずそうな顔をした。
「ボス?」
「これが好きってやつかって、観念したような感じか?」
「そういう感じなんですね」
「言っとくけど、おまえに対してだぞ」
「え?」
「欲しいと思った女はおまえがはじめてだ、リリア」
ちゅっと指先にキスされて、リリアは顔を真っ赤にする。
「ボス……っ」
「おまえがあっさり自分の身を差し出そうとしたとき、俺がどんな気持ちだったか、知らねェだろ」
「あ……」
リリアはあのパーティーを思い出した。
自分の命か、たくさんの人の命か。
そう選択を迫られて、リリアはたくさんの人の命を選んだ。
けれども。
「わ、私。あ、あのとき……」
「ん?」
「パーティーでボスに手をつかまれたとき。私は……すぐに手を振り払って、あの人のところに行かなきゃいけなかったのに……。なのに……」
泣きそうに眉を下げて、リリアは苦笑する。
どうしようもない自分を、叱ってほしい気持ちだった。
「私は……。ボスと一緒に生きたいって、そう、思ってしまったんです……。だから、すぐに手を振り払えなかった……。ボスがいたから。生きたいって、そう思って……」
リリアの言葉がとぎれる。
リリアに覆いかぶさったまま、グレイが親指でリリアの唇をなぞっていた。
「あー……リリア」
「は、はいっ」
瞳にめいっぱいの情欲を含んで、グレイはリリアを見下ろした。
「キスしていいか?」
リリアは息を飲んだ。
大きな瞳に薄い膜を張って、キョロキョロと落ち着かない様子で視線をさまよわせる。
「いやか?」
「う……いや、じゃ、ない、です、けど……」
リリアは迷って、やがて小さくうなずいた。
うなずいているのかも怪しいかすかな動きだったけれども、グレイはニヤリと口端を上げて笑う。
ゆっくり体が倒れてきて、リリアは身を固くする。
「ンなに警戒すんなって」
「だって、ボス……っ」
羞恥に潤む瞳で見つめれば、グレイはうんと優しく目を細める。
「私、キスしたことないんで……」
「知ってる」
リリアの言葉も食べるみたいに、くちびるが重なった。
リリアは自分のものではない柔らかさに驚いて、反射的に逃れようとする。けれども、すぐに大きな手がリリアの頭を押さえつけて、落ち着かせるように優しく撫でていく。
かすかな吐息がくちびるの隙間から溢れていった。
くっついて、離れて、またくっつく。
体の熱が上がって、頭にぼんやりと霧がかかっていく。すぐに終わると思っていたのに、ちっとも終わらない。
物語で読んだキスは、軽く触れるだけのものだったのに。
苦しくなってきて、トントンと、グレイの胸元を弱々しく叩く。けれども、その手が邪魔だと言わんばかりに、指先を絡めてベッドに押さえつけられた。
もっと、もっと。
そう、貪るように食いつかれて、リリアは首を仰け反らせながら拒絶した。
「ん……ゃ、ぼす……」
ぎゅっとグレイの手を握ると、ハッとしたように離れていった。リリアは必死になって、足らない空気を吸い込む。
黒髪をかき上げたグレイが、気まずそうにリリアを見下ろす。
「あー、悪い。理性飛びかけた。大丈夫か?」