何が起きたのかわからない。
目の前に、白いシャツが広がっている。
リリアの髪を梳くように撫でる右手。硬い胸板に押し付けられて、ちょっと鼻をぶつけた。
耳元では、「はぁ」と、安堵のため息にしてはやけに熱のこもった吐息が聞こえた。
グレイの爽やかな香りが今までで一番濃く香る。
あまりの距離の近さに、リリアの頭の中はショートした。バチンッ! と、聞こえもしない音が聞こえた。
包み込むように、動きをすべて拘束するみたいに、男の人に抱きしめられられている。
それを理解した瞬間、心臓がドッドッドッ、とありえない速度でリズムを刻み出した。
落ち着けようと思っても、ちっとも上手くいってくれない。リリアの言うことなど知らないと言いたげに、心臓は自分勝手に暴れ回っては、リリアの体の熱を上げていく。
この心臓の音も。体の熱も。全部。触れられたところから伝わってしまうんじゃないか。
そんな心配が頭をよぎった。
じっとりと肌が汗ばんでいく。
リリアは固まったまま、目玉だけを左右に揺らす。無意識に逃げる場所を探してみたけれど、そんなものはどこにもなかった。
ベッドに片足を乗り上げたグレイは、両腕でしっかりとリリアの体を抱き込んでいる。
スリっと頭に頬を押し付けられて、リリアは悲鳴をあげそうになった。
怒っていたのに。怒っているように見えたのに。グレイは宝物を包むように優しくリリアに触れている。
優しいのに力強い腕の中で、リリアは破裂しそうな自分の心臓を必死に抱え込む。
「リリア……」
鼓膜を直接揺らすくらい近くで、吐息混じりの声が響く。
「ぼ、ぼす、あの……は、離れ……」
「怪我は」
「え、あ、ありま、せん」
さりげなく遮られた気がして、リリアはもう一度、喉の奥からか細い声をふり絞る。
「あ、の、離れ、て、ください……」
「……」
返ってきたのは沈黙だった。
警戒したウサギのように固まっているリリアの背中を、あやすように大きな手がそっとリズムを刻む。
「別に取って食いやしねェよ。そう警戒すんな」
「だ、だって……心臓が……変、です……」
リリアはもごもごと口の中で反論をした。
「ほぉ?」
少し弾んだ、楽しそうな声が、リリアの耳を撫でた。
「どう変なんだ?」
「なんか、もう、わかりません……息が、苦しい」
息をすればしただけ、爽やかな香りが広がる。
肺いっぱいに満たされていく。
吐き出す息さえも、グレイの香りに変わってしまうんじゃないかと思うほど。
ならばと息を止めてみるけど、やっぱり苦しいだけだ。
「おまえ、耳まで赤くなってんぞ」
サラリと髪を耳にかけられる。
指先が耳に触れて、リリアの心臓はヒュッと縮み上がった。なでるように指の腹でこすられて、ゾクゾクする。
リリアはぐるぐると目を回しながら、距離を取ろうと身動ぎした。
「ぼ、ボスっ、な、なに、なんの御用でしょうかっ?」
「あァ? 顔見に来ただけだ」
「そ、そうなんですね。えっと、どこも怪我はないですし、元気ですよ」
「ふぅん」
「えっと、えっと……」
会話がなくなって、宥めるように優しく背中を叩く手のひらに押されるように、リリアはそっと、額をグレイの肩に押し付けた。
手負いの獣がようやく気を許したみたいに、リリアは深く息を吐いて体の力を抜いた。
「ボスは……?」
「ん?」
「怪我、大丈夫ですか? どこか、痛いところとか」
「ばァか。ねェよ。怪我なんて、どこにも」
「……なら、よかった」
「……」
リリアはほっと息を吐いた。
顔を押し付けたまま、目を閉じる。
髪を梳くように撫でる手の感触に集中する。だんだんと、眠くなってくるような気がした。
「おまえは……」
ぼんやりとした頭に、声が響く。
どこか虚ろで、独り言のようにも思えた。
けれども、確かな怒りと激情が含まれている。
「自分の命に、興味も関心もないんだな」
リリアは顔を上げた。
黙ったまま、リリアをじっと見下ろしている海のような双眸を見つめる。
言葉なく、視線を交わした。
何を言っていいのかもわからなかったし、グレイも何かを言う気配もなかった。
ただ、静かな沈黙が部屋を満たす。
居心地が悪いわけではなかった。
その沈黙に、何か意味が含まれているような気がして。
リリアは音のない声から、必至に言葉を手繰り寄せようとする。
けれどもやっぱりわからなくて、眉を下げて困ったように微笑んだ。
グレイが青い瞳を眇める。
リリアの頬に、ゴツゴツした硬い手が触れた。スルリと、手の甲で頬を撫でていく。
「おまえみたいな鈍いバカは、ハッキリ言っとかねェとわからねえからな」
真っ直ぐに注がれた視線。そらすことは許さないという確固たる意志を感じた。
「俺は、おまえが死んだら困る」
リリアの心臓が小さく跳ね上がった。
もう十分すぎるほど暴れ回っていたというのに、まだまだ暴れ足りないらしい。
「理由はわかるか?」
「え、と……。契約、したから、ですか」
かすれた、喉から絞り出した声で、リリアは尋ねる。
「ばァか」
青い瞳が、かすかに細くなる。獲物を見るみたいに。
薄い唇が、ゆっくりとつり上がる。大胆不敵に、獲物を奪い取るみたいに。
「惚れてんだよ、おまえに」