大きく開けられた窓から、夜の風が吹き抜けていく。
リリアは窓の外に立つ、青い髪をした少女に駆け寄った。
だが、すぐに少女は眉を釣り上げて、駆け寄ってきたリリアの額を指先で突いた。
「こんの、バカッ!」
声量は抑えられているが、たっぷりと苛立ちのこもった声がリリアの胸に突き刺さる。
「何捕まってるのよ!? ほんと鈍臭いわね!」
「し、シルカ……」
腕を組んで舌打ちをした青い髪の少女、シルカ・ロールは、グイッとリリアの腕をつかむ。
「え、えっ、なに?」
「何じゃないわよ。ぼさっとしないで。逃げるわよ!」
「え……? う、うん!」
なんだかよく分からないけれども、リリアはついて行こうと思った。
シルカはいつだって、リリアの王子様だった。
退屈なときは驚かせてくれて、落ち込んでるときは楽しませてくれて。困っているときは、手を差し伸べてくれる。こうやって、今みたいに。
文句を言いながらも、シルカはリリアをすくい上げてくれる。
「で、でもどうやって逃げるの?」
「何も聞いてないの?」
「え、な、なにを?」
シルカはため息をついて、リリアをひょいと抱き上げた。細い両手に、軽々とリリアを抱えている。
「ええぇぇぇっ! 待って、重いよ!」
「そんなヒョロい体して何言ってんのよ」
チラリとシルカがリリアの胸もとを見た気がして、リリアはふくれっ面をしながら胸を両腕で隠した。
「いいからつかまってなさい」
「え、でも、なにするの? ここ、三階だよ」
リリアが手すりの下を見ながらそういうと、シルカは不敵に口角を釣り上げる。
「バカね、知らないの? ウィング」
「……へ」
次の瞬間、シルカはリリアを抱えたまま、三階から飛び降りた。胃が縮むような浮遊感に、リリアは泣きそうになる。
宙に放り投げられそうになって、リリアは必死にシルカの首に手を回してしがみついた。
リリアが恐怖に震えるのを無視し、軽々と地面に着地したシルカはそのままの勢いで夜道を走っていく。
どう考えても、人が出せる速さを超えていた。ビュンビュンと風を切る音がリリアの耳を掠めていく。
不敵に笑いながら闇夜を駆けるシルカの姿は、お宝を盗んだ怪盗のようだ。
「ね、ねえ、シルカ!」
「なによ」
「聞いてもいい?」
「簡潔にならね」
そう言い切られて、リリアは何を聞こうか迷った。
頭の中にたくさんの質問を並べて、その中のひとつを選ぶ。
「どうして、私が捕まってるって知ってたの?」
シルカは少しの間沈黙し、やがて諦めたように息を吐く。
「シーカー・サヴァートが来たわ。あんたが居なくなったって、血相変えてたわよ」
「シーカーさんが?」
「そうよ。契約がバレたことも聞いたわ」
シルカは開き直ったように笑って肩をすくめる。
「シルカ」
「なに」
「……助けに来てくれて、ありがとう」
ぎゅっと、シルカの首にしがみつく。すぐに、飽きれたようなため息が降ってきた。
「……あんたって、ほんと、バカよねぇ。私に何されたか忘れたの?」
「忘れてないよ。忘れてない。でも、何か、理由があるならそれでいいの。ほんとはね、会ったらたくさんたくさん聞こうと思ってた」
どういうことって、問い詰めようと思っていた。
大嫌いだと言ったのに、どうして、と。
けれども。
「もう、いいの。聞かなくても、わかったから」
シルカは黙り込んでしまった。けれどもその足は止まらないから、風を切る音だけが響いていく。
「ねえリリア。私の夢みたいな話、信じる?」
小さな、ポツリとした声が響いた。リリアはシルカを見る。シルカはまっすぐ前を見ていた。
「……信じたい、よ」
小さな声で返すと、シルカがかすかに苦笑いをした。
「ひとりの友だちに狂った女の、バカみたいな話よ」
リリアは静かに口をつぐんだ。
「聖女の力って、時間を巻き戻すこともできるの」
「……え?」
「私は、もう何度も人生をやり直してる」
どこか他人事にも聞こえる、少し無機質な声音だった。
「リリア、あんたが死ぬからよ」
リリアはヒュッと息を飲んで黙り込んだ。
港町で、グレイに言われたことが脳裏を過ったからだ。
後に残される人のことを考えないのなら、それは偽善だと。何度、シルカの心を殺したと、グレイはそう言った。
もしかして、グレイは知っていたのだろうか。
シルカのこの話を。
「あんたが死んだあと、私が聖女に選ばれた。それで、たまたま知ったのよ。あんたはこの国のせいで死んだんだって」
「シルカ……」
「私はどうしてあんたが死ななきゃいけなかったのって思ったわ。リリアを返してって。そうしたら──」
クスリと、シルカは笑う。うんと綺麗に。うんと残酷に。狂いかけた運命を呪う、魔女のような笑みだった。
「巻き戻ったのよ、時間が。私は、あんたと出会うの、これで8回目よ」
シルカの瞳の奥が、赤く燃えたようにリリアには見えた。
「あんたって、ほんとすぐ死んじゃうのね。何度やり直しても、何度も、何度も、何度も」
リリアは何も言えなかった。
ごめんなさいと謝ることも違う気がしたし、そんな事しなくていいよと言うのも違う気がした。
「それで、憎くて、憎くて、たまらなくて。そうしたら、目の前にこれが現れたわ」
シルカが視線で自分の左手首を示した。
リリアもその視線を追って、目を瞬く。細い手首に、青い石が嵌め込まれている、腕輪がついていた。
「それ……」
「ウィング。そう呼ばれてるらしいけれど、私はこれを、悪魔の力だと思ってる」
「悪魔の力?」
「聖女の力と、対になる力よ。これを手にした時、私は聖女に選ばれなかった」
だんだん難しくなってきた気がして、リリアはなんとか理解しようと頭を働かせる。
「絶望したわ。だって私は、今まで聖女の力で時間を巻き戻していたんだもの」
「……え、じゃあ、今は……?」
「全部が憎くて仕方なかった。そうしたら、声が聞こえたのよ」
「声?」
「あんたも聖女ならわかるでしょう? 神の声に似た感じよ。それの、もっとずっと、禍々しい感じって言ったらいいかしら?」
リリアは瞳を揺らして口を閉ざした。
実は、リリアはまだ、神の声を聞いたことがなかった。
「力を貸そうって言ってきたわ」
じっと、シルカはリリアを見た。視線が交わった瞬間、リリアの背筋がゾクリとした。
シルカの瞳が、真っ赤に燃えているように見えた。
「何となくわかったわ。コレが、最後だって」
ニコリと、シルカは笑う。
「それでこの腕輪について調べたら、こんな話があったわ。民に祝福を授けた一人の美しい女神と、その女神に心奪われた五人の悪魔の話。そしてそれは、私たちの国の建国神話にも繋がっているのよ」
「神のための国を建てたって話?」
リリアは女学院で習った国の歴史を思い出す。
「正確には、女神を悪魔たちから守るための国。私たちの国は、東西南北に結界が張られている。習ったでしょう? まぁ、今はそんなもの見る影もないわね。私利私欲に塗れた汚い国よ」
シルカは鼻で笑い飛ばした。
「元が悪魔たちから守るための国なら、逆に悪魔に売り渡してしまえば、あんたは護られんじゃないかって思った」
シルカが、まっすぐにリリアを見る。
「あんたは、この国にいるから死ぬんじゃないかって」
何となく、話が見えて来た気がして、リリアはゆっくりと口を開く。
「……じゃあ、シルカの契約って……」
「あんたをあの男に売ったのよ。絶対にあんたを手放さない自信もあったわ。だってあの男、私に似ているもの。狡くて、せこくて、この世界を何より憎んでて。そのくせ、誰よりも眩しいものに憧れてる。バカみたいでしょう?」
鼻で笑ったシルカを、とてもじゃないが笑うことなんてできなかった。
リリアは震えるくちびるを動かして、掠れそうになる声でなんとか言葉を紡ぐ。
「……でも、それじゃあ。だって、私は、気づかなかったかもしれないのに。シルカのこと、ずっと、誤解してたかもしれないのに。どうしてっ……」
「べつに、なんだって良かったのよ。たとえもう、二度と会えなくても。あんたが、この世界のどこかで生きているのなら、それで。そうしたら私は、いつかを夢見て生きていける。いつか、もしかしたら、また、逢えるかもしれないって」
ググッと、胸が苦しくなった。まぶたの裏が熱くなる。
シルカはいつだって、リリアにとって王子様だった。
どうしてそこまで、と、聞くことはできなかった。
だってリリアは、その理由を知っていた。
「私も、シルカが好きだよ……っ」
シルカは目を丸くして、憑き物が落ちたように、ふわりと笑う。
「知ってるわよ、ばか」
すがり付く幼子のように、リリアはぎゅうぎゅうとシルカに抱きついた。
「安心しなさい。すぐに帰してあげるわ。もう少し行ったところで、落ち合う予定──ッ!」
シルカが視線を鋭くして、足を止めた。
「シルカ、どうしたの?」
リリアがシルカの顔をのぞき込む。それと同時に、穏やかで、それでいて威圧するような低い声が響いた。
「リリア様をこちらに、渡していただけますか?」