チーがメルティアたちの近くにやって来て、青い指先をくいっと動かす。
その瞬間、落下していたメルティアとジークの体が、重力に逆らうように浮き上がった。
「わっ、チーくん……! ありがとう!」
メルティアの言葉を聞いてジークがほっと息を吐く。
それでも万が一を考えているのかメルティアを抱き込んだままだ。
「チーはなんと?」
「助けてくれたみたい。上に行くのかな?」
「いや、このまま下に行くぜ」
「下に行くって」
ジークが奈落の底をみて眉をひそめる。
「下には何が?」
「下に目的の場所があるのさ」
「そうだったの? あ、下が目的地だったみたい」
チーの声が聞こえないジークにメルティアは通訳をする。
「ったく、安全な道を行くのかと思ったら、メルってば飛び込むんだからな」
「飛び込んでないもん。落ちちゃったんだもん。だって壁に……」
メルティアはさっき見た光景を思い出して、口を閉じる。
「壁がどうかされたのですか?」
メルティアは少しだけ言いよどんで、声を潜めて話し出す。
「……あの壁、反射してたでしょ?」
「鏡みたいになっていましたね」
「わたしが映ってたんだけど……色が……」
「色?」
メルティアはきゅっと唇を引き結んでから、ゆっくり口を開く。
「瞳の色が、ピンクだったの。しかも、少し笑ったように見えた……」
ジークは少し黙り込んで、上を見た。
吹き抜けの天井から光が差し込んでキラキラしている。
「……光の反射でしょうか」
「……そうかも。ごめんね、ジーク。びっくりしちゃって」
「いえ。あなたがご無事でよかった」
ジークは優しく微笑んで、片手でメルティアを抱えながら落ち着かせるようにメルティアの背中をたたく。
メルティアもじわじわと助かった実感が湧いてきて、そして抱きしめられていることにも気づいて、ハッとする。
少しだけ魔が差して、甘えるようにジークの体に顔をすり寄せようとした、が。ジークの厳しい声が飛ぶ。
「ですが、手を離したことは感心しませんね」
「そ、それは……ジークも落ちちゃうと思ったから」
「あなたが落ちたり滑ったりしてもいいように手をつかんでいたのでしょう」
「でも……ジークが怪我したら嫌だもん」
「あなたが怪我をして、俺だけノコノコと帰れると思いですか?」
「……それは……」
それはそうなのだが、こういうのは理屈ではない。感情の問題だ。
ジークが好きだから死んでほしくない。
それだけなのだ。
「ジークにはわたしの気持ちわかんないもん」
メルティアは膨れてぷいと顔をそむけた。
膨れるメルティアを見てジークは飽きれたようにため息をつく。
「あなたはもう16になったでしょう。いつまでも子どものままではいられませんよ」
「……なにそれ」
「そのままです」
「ジークだってそんなに変わんないもん」
「だいぶ違いますよ」
「大人ぶってるけどジークだって子どもだもん」
「俺のどこがですか」
「そうやってすぐ怒るとこ!」
「怒ってませんよ」
「怒ってるもん」
言い合いをしていると、突然浮力がなくなって、体が落下する。
ふわっと胃が浮き上がるような感覚に、メルティアは驚いてジークにしがみついた。
「きゃああああ?」
「メルティア様!」
ジークも強くメルティアを抱きしめたが、身構える前にぼちゃんと水の中に沈んだ。
どうやら奈落の底は湖になっていたらしい。
ジークがメルティアを抱えたまますぐに浮上する。
メルティアは驚いた拍子に口に入った水をけほけほと吐き出した。
「大丈夫ですか?」
「う……だ、大丈夫。……チーくん」
メルティアは恨めしそうにふよふよと目の前を飛んだチーを見た。
「オイラだってもう着くぜって言ったぜ? メルが聞いてなかったんだろ」
「そ、それは……ご、ごめんね」
「ジークといちゃいちゃするのに夢中だったもんな」
「なっ……してないもん」
「してたね。ジークと。いちゃいちゃ」
「も、もう言わなくていいよ!」
メルティアは顔を赤らめて首を振った。
「……チーはなんと?」
「あ……えっと……話しかけてくれてたのに聞いてなかったみたい」
メルティアは視線を泳がせながらそう答えた。
ジークは不審そうに眉を上げたが、深く追求することはなく、メルティアを抱き寄せたままさっと周囲に視線を走らせる。
「目的地はここなんでしたっけ」
「ここは通過点。本当ならあっちから来るはずだった」
チーが指さしたほうは暗くて何も見えなかったが、どうやら道があるらしい。
「で、これから行くのはこっち」
チーは反対側を指さす。そこからはほのかに光が漏れていた。
「えっと、本当はこっちから来る予定で、でも落ちちゃったから一気に来れたみたい? それで、これから行くのはこっちだって」
ジークはメルティアが示した方を見て軽くうなずく。
「わかりました。ひとまず光のほうに向かいましょうか」
メルティアを抱えながらジークが器用に泳いでいく。
メルティアもおそらく泳げると思うが、自信はなかった。
どこかで泳いだ記憶はほとんどない。湯船でそれらしき真似をしたことならあるが。
しばらく泳ぐと、地面が見えてきた。
まずジークがメルティアを持ち上げて陸にあげたあと、両手の筋肉を使ってひょいと上がる。
背負っていたリュックも一度下ろして、中の荷物を確認した。
メルティアも髪を後ろによけて、びしょ濡れになった服や髪を軽く絞っていく。
地面にぼたぼたと水滴が落ちた。
「びしょびしょになっちゃったね」
「風邪を引くといけません。どこか休める場所を探しましょう」
濡れた黒髪をかき上げながらジークがそう答える。
メルティアはぽーっとその姿に見入った。
「メルティア様?」
「え? あ、う、うん。そうだね」
「聞いてましたか?」
「……ごめんなさい」
ため息をつきながらジークがメルティアを見て、自分の服でメルティアの頬を伝う雫をぬぐう。
「火を起こせるところを探しましょうか」
差し出されたジークの手を取って、メルティアは歩き出す。
薄暗い中、チーの言う通りに進んでいくと、突然ぱっと視界が開けた。
天井に少し穴が開いているのか、光がわずかに差し込んでいる。
それ以外の光なんてないはずなのに、なぜか明るい場所。
暖かな風が草の間を吹き抜け、優しく頬をなでていく。
「……すごい……」
花の楽園。
その言葉が相応しい花畑。枯れた花が見当たらず、一面に美しい花が咲く。ピンク、黄色、赤に青に白。カラフルな花が気持ちよさそうに風に揺られていた。
メルティアはその光景にうっとりと見惚れる。
「洞窟の奥深くにこんな場所があったのか……」
ジークも驚いたように花畑を見つめていた。
「ハルデナの妖精たちはここで寝てるはずだぜ」
「あ。そうだった」
「忘れてたのかい?」
「い、いろいろあったから……」
メルティアは体を小さくしながら言い訳をした。
やれやれと肩をすくめたチーの誘導する通りにメルティアは歩いていく。
そのあとをジークがついてくるが、周囲を警戒しているのかあちこちに視線を飛ばしていた。
「ほら、あの花の中」
チーが示したのは、男の人の手のひらはありそうな大きな花。
真っ白な花びらが幾層にも重なっている、美しい花だ。
メルティアはそっと花の中をのぞき込んだ。
そこでは、黄色い肌をしたちょっと小太りの妖精がすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
「この子?」
「一番重要な奴はそいつだな」
「どうやって起こしたらいいの?」
「普通に揺すって起こしたらいいだろ」
「う、うーん。ちょっとかわいそう」
メルティアが躊躇していると、妖精がもぞもぞと身じろぎをして、ゆっくりと目を開ける。
そしてメルティアと目が合うと、寝ぼけた半目をしたままにこーと笑った。
「あ~。メルティアーナさまぁ。おはよーございまぁす」