次の日、メルティアは朝早くから帝国に行く準備をしていた。
とはいっても、身一つで来いとのことなので、することはない。
お城のメイドたちに体も髪も綺麗にしてもらい、メルティアは残った時間で手紙を書く。
何が必要か考えながらメモしていると、扉がノックされる。
「はーい」
「メルティア様」
ジークの声だった。
メルティアは扉を開けて、にこりと笑ってジークに話しかける。
「ちょうどよかった。あのね、ジークに頼みたいことがあって……」
「帝国に行くというのは、本当ですか?」
メルティアはピタリと固まる。
ジークは怒りを押し潰した、地獄の使者のような声をしていた。
メルティアはあらためてまじまじとジークの顔を見る。
目尻を釣りあげて、眉も釣りあげて、なんなら額に青筋を浮かべながら、ジークはメルティアを見下ろしていた。
「お父様に聞いたの?」
「どうして」
「い、言わなかったの怒ってるの? ごめんね、でも……」
「どうして了承したんですか!」
怒号が響いた。
メルティアはビクリと身をすくませて、一歩下がる。ジークが部屋の中に入ってきた。
ガチャリと鍵をかけるのを見て、メルティアは目を丸くする。
鬼のような顔をしたジークが近づいてくる。下がれば下がるほど壁に追い詰められて、行き場がなくなる。背中に硬い壁の感触がした。
こんなことが、前にもあったような気がした。
「じ、ジーク、顔こわいよ。帝国に行くだけだよ? すごく大きいし、きっといいところだよ」
メルティアは何とか宥めようとした。
だけどメルティアが何かを言えば言うほどジークの怒りは増すようで、目元を痙攣させながら睨みつけてくる。
「戦を止めるために行くと聞きました」
「……」
「その意味が、おわかりではないと?」
メルティアはうつむいて身を小さくする。
「人質として行くんですよ。何かあれば姫を殺すと。どんな扱いを受けるかもわからない」
「だ、大丈夫だよ。ジーク、心配しすぎ」
ジークが、睨むような勢いでメルティアを見る。
メルティアは気まずくなって視線をそらした。
壁についたジークの手が、怒りで細かく震えているのが視界に映る。
そんなに怒らなくても、と思うのと同時に、真面目なジークらしいと思った。
メルティアの家族ですら、しかたがない、それしかないと納得してくれたのに。
主人に仕える騎士としては間違いなく花丸だろう。
「どうして、そんな呑気なことが言えるんですか」
「人質として行くんだから、すぐには殺されないよ。それなりの生活はできるかもしれないし、皇帝様だっていい人かもしれない」
「大した理由もなく、突然宣戦布告してくる皇帝が、いい人?」
「……」
「そんなはずないだろ」
バカにしたようにジークが鼻で笑う。
メルティアは言葉が見つからなくて、ただ視線を下げた。
いい人ではなさそうなことくらい、メルティアだってわかっていた。
だって、今の皇帝は、前にディルが言っていた『戦争王』なのだから。
たくさんの国に戦争を仕掛けて、焼け野原にして、そうしてこの国も標的にされた。
多くの国を苦しめる人がいい人ではないだろうことは簡単に予想できる。
「なぜ戦えと、そうおっしゃらないのですか」
重たい圧を感じながら、メルティアはゆっくりと口を開く。
「戦いたい人なんて、どこにもいないんだよ。傷ついていい人だっていない。だって、みんな生活があって、大切な人がいる」
「……」
「皇帝様は、わたしが行けば、全面降伏としてこの国を侵略しないって約束してくれた」
メルティアはゆっくりと顔をあげる。
「だから、わたしは行く」
ぶれないように、決意は固いと示すために、まっすぐジークを見る。
「もう二度と、この国に戻れなくても?」
メルティアはゆっくり瞬きをした。
過去の記憶を、まぶたの裏に思い返すように。
「ジーク、前に言ったよね。わたしはこの国の姫だって」
「……」
「わたしには、もっとふさわしい人がいるって」
「……」
「ジークの言った通りだった」
メルティアは覚悟と笑顔を浮かべて、ジークにほほ笑みかける。
「わたしは、この国の姫だから。この国のために生きるの」
ジークが言葉をなくしたみたいに空気を噛んだ。
くしゃりと顔を歪めて、メルティアに少しだけもたれかかってくる。首筋に、ジークの前髪が触れた。
「あなたは、誰か、別の人と……兄と、幸せになるのではなかったのですか」
「わ、わたしは、ベイと結婚するなんて言ってないもん」
ムッとメルティアは口をとがらせた。
「ジークがダメなら考えてみなさいって言われて、考えたけど……でも、ダメだった」
「……」
「だって、わたしは……」
「ジークが好きだから」と言いかけて、メルティアはハッとする。慌てて言葉を飲み込んで首を振る。
「ううん。なんでもない。あ、えっと、準備を……」
「俺のせいですか」
色のない声だった。
メルティアはサッと背筋が冷えていくのを感じて、大きく首を横に振る。
「ち、違うよ。違う。ジークのせいじゃない」
「……」
「本当に、違う。だから、気にしないで」
メルティアはグッとジークの体を押し返した。
「ご、ごめんね。急だったから、びっくりしたよね。あのね、ジークに頼みたいことが……」
メルティアは話題を変えようと、ジークの腕からするりと抜け出す。
そして、テーブルに置きっぱなしだったメモに近づく。メモを手に振り返ろうとしたとき、背後に重さを感じた。
「行かないでくださいと、そう言ったら」
メルティアはメモを持ったまま動けなくなる。
ジークがメルティアの真後ろに立って、テーブルの間にメルティアを挟み込むように両手をついた。
「行くなと、そう言ったら。どうする」
うなじのあたりに柔らかいものが触れた感触ががして、メルティアの体が小さく跳ねた。
「ティア……」
耳をなでるような、甘く優しい声。
びっくりして、メルティアは声が出なくなる。
何が起きているのか理解できなかった。
ただ硬直していると、すりっと頭にジークの頬が擦り付けられた感触がして、メルティアはますます混乱する。
「じ、ジークっ」
ジークが変だ。おかしくなっている。
責任を感じているのかもしれない。
自分のせいで帝国へ行くことになったと、そう思い込んでしまっているのかも。
「あ、あのね、本当に、ジークのせいじゃないのっ」
うなじにジークの鼻先が触れたのがわかった。匂いを嗅がれている。
メルティアは焦りながら早口に言葉を紡ぐ。
「そ、それにねっ、わたしは、帝国で幸せになるから大丈夫だよ。場所は、ここじゃないかもしれないけど、ちゃんと、幸せになるから。だから、気にしないで」
「あなたには、もう二度と、会えないのでしょう」
「わ、わかんないよ。たまに遊びに来れるかもしれないし。もし、来れなかったとしても……」
メルティアは言葉を切った。
そうして、幼い子どもに言い聞かせるように、刷り込むように、静かにゆっくりとジークに伝える。
「わたしのことは、忘れていいから」
「……」
「姫なんていなかったって。全部幻だったって、そう思って、忘れて?」
ジークの息を飲む音が聞こえた。
そして、すぐに後ろから拘束するように抱きしめられる。
「忘れられるわけ、ないだろ」
ジークの腕が強くメルティアを捕えた。
離さないと、このまま行かせないとでもいうかのように締め付ける。
どうして、そこまで必死になるの?
メルティアは心の中で問いかける。
だって、ジークはメルティアを振ったのだ。あなたの気持ちには応えられないと。
たしかにそう言ったはずだ。
なのに、どうして。
「ティア」
慈しむような手つきで、さらりとメルティアの髪を撫で、そのまま小さな耳たぶを指先でこすり合せる。
「……っ、ジーク」
何かが壊れてしまったみたいに、ジークがおかしい。
首だけ振り返ると、バチンと目が合う。熱に浮かされたような眼差しを向けられて、メルティアは動けなくなる。
「俺は、あなたにお仕えできるなら、それだけでよかった」
「ジーク……?」
「こうなるとわかっていたなら、あのとき、手を伸ばすことをためらったりしなかった」
ぐっと腰を引き寄せられた。
無理やりジークのほうを向かされる。
「あなたの手を引いて、このまま国を出てしまえば……」
「……じーく」
ゆっくり、ひたいとひたいが重なる。
ジークの瞳の中に、驚いているメルティアがいた。
ジークが愛おしそうに目を細める。
「……ティア」
ジークの大きな手が、メルティアの頬に触れた。
そのままジークの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
かすかに首を傾け、ジークが目を伏せる。
長いまつ毛。凛々しい細い眉。すっと通った鼻筋。
目の前に広がる妖艶な香りに当てられて、メルティアはただ息を飲んだ。
吐息と吐息が触れ合って、メルティアはかすれた声を出した。
「じ、く……」
唇が触れる直前、トントン、と、扉がノックされた。
メルティアはハッとして、強くジークを押しのける。甘く溶けそうな空気はどこかへ飛んでいき、張り詰めた空気が戻ってくる。
「は、はいっ」
「メルティア様、お迎えが」
「す、すぐ行きますっ」
メルティアは眉を下げながらジークを振り返った。
「あ、あのね、お花のお世話を頼みたかったの。テーブルの上にメモがあるから、お願いしてもいい?」
ジークからの返事はなかった。
メルティアのほうを見ようともしない。
メルティアは眉を下げて切なげに笑って、ジークに最後の別れを告げる。
「えっと……じゃあ、もう行くね。今までありがとう、ジーク。さようなら」
それだけ言って、メルティアは一人部屋を出た。