「うわぁ……っ! ここが、地上!」
海と地上を繋ぐ巨大な建物、海の宮殿を一歩出れば、海風に乗って私のくるくるの薄茶色の髪とピンクのドレスワンピースがなびいた。
聞こえてくるのは楽しげな笑い声と、愉快な音楽。
目の前に広がるのは、地上の楽園!
建物の壁は磨き上げられた真珠のごとく白く光り、丸い屋根は海底名物マーメロンのように深い青。
広場の噴水では、てっぺんに水の花が咲き、キラキラと光の雨を降らせている。
何度も何度も夢に見た地上だ。
魅惑の地上都市、アクアバース!
私、リィル・クラッドは昨日十三歳の誕生日を迎え、正式に大人の仲間として認められた。
私たち海の使族は、大人になると公務がはじまる。
十三歳から馬車馬のように働かされるのだ。
でも、その代わりに、地上に行けるようになる。それも、自由に!
思い返せば、とても長く、辛い日々だった……。
お兄さまたちが地上から持ち帰ってくる、愉快で不思議な観光自慢話。
それを聞くたびに、私は悔しさで枕を噛みちぎった。
地上にはどんなものがあるのだろう?
綺麗なものや新しい石はどれだけあるのだろう? 生きものは? 人は? 植物は?
ワクワクを胸いっぱいに詰めこんで、大人になる日を指折り数えて待ち続けた。
そして、ようやく。
私は大人に片足を突っこんだ海の使族として、地上に行くことを許された。
私は大人になったんだ!
感動の海に包まれていると、一陣の風が吹きぬけ、顔にかかっている白いベールがぺらりとめくれそうになる。
その瞬間、半歩前にいたお兄さまがバンッとハエを叩くみたいにベールごと私の顔を押さえつけた。
……お兄さま、もう少し妹のかわいい顔を大切に扱ってくれませんか?
「うぅ、鼻が……」
不意打ちでぶっ叩かれた鼻を片手で押さえる。
「あぁ、ごめんごめん。リィルがぼーっとしてるから。ほら、ちゃんとベールを手で押さえて」
お兄さまは私の鼻をキュッキュッと摘んで元に戻す。
はたして本当に戻っただろうか……。家に帰ったら鏡でチェックしないと。鼻がぺちゃんこになっていたら大変だ。お兄さまに慰謝料を請求しなきゃ。
「このベール、ペラペラしていますし、風が強すぎるから完全防御は無理だと思いますの」
頭からかぶせられている花嫁のベールのような薄い布。ミラーベール。
こちら側からは見えるけれど、反対側からは見えないという特別な布だ。
ちなみにお兄さまはつけていない。私だけがつけている。半人前の印らしい。
見習い初心者マークみたいなものだろうか。
「うーん。新しく改良してもらうか。頭巾みたいにするとか」
それはちょっとダサい気がするから嫌だなぁ。
私はベールが取れないよう頭を押さえながらチラリと街を見た。
お仕事が終わったらめいっぱい観光するって約束だから、今はガマン。
これから私とお兄さまが向かうのは、世界でも限られた数しかない港だ。そこで、公務を行う。
海の使族の公務とは、私たちの持つ海の力を地上の人たちに分け与えること。
大陸が少なく、ほとんどが海であるこの星──スカイリアでは、私たち海の使族は特別な存在だったりする。
海の使族は生まれたときから海底で暮らし、海を操る力を持つ。
海には高波や渦潮、巨大な海の生きものたちと、危険がいっぱい。
そんな大海原を渡る船が、安全に旅できるようにと、私たちは願いをこめて海の加護を付与する。海の加護が授けられた船は、海の生きものに襲われることもなく、荒波にも負けず、どんな危険な海だって渡ることができるようになる……らしい。
私はまだ半人前だから、ちゃんと見たことはないんだけどね。
周りに白い軍服を着た警護を侍らせて、進軍のごとくゾロゾロと街の中を歩く。
歩くたびに人が左右に割れ、私たちが歩き終わるのを待つように、その場で動かず道をゆずってくれる。
なんだか異様な光景である。
いや、敬われていると聞いてはいたけれどもね。でも、なんていうかこう……恐がられてない? 嫌な人が来たときに目を合わせないよう、サッとそらすのと似ている……。
「お兄さま、今日の公務、私は見ているだけでいいんですのよね?」
一応あらためて確認しておく。
仰々しい雰囲気にちょっと不安になってきたんだもの。今日が公務デビューなんて言われたら、私はパニックになる。
我が兄はほがらかに笑いながら、毒舌を発揮する。
「もちろん。今のリィルが手を出したら、船も海もめちゃくちゃになるよ」
失礼な。
たしかにまだ半人前だし、海の使族の力だってお兄さまほど上手に使えないけれど、そこまでひどくはない。
地上に行く野望のためたくさん勉強したし、成人したのだから。
もう十三歳! 立派な大人だ。
ベールの下でお兄さまに舌を出し、ふんっと顔を背けて歩く。
そして、アクアバースの名物ともいえる巨大な港に着く──手前で、甲高い声が響き渡った。
「キャアァアアア!」
耳を刺すような悲痛な声。街全体のざわめきがピタリと止む。
「な、なにっ?」
悲鳴!?
なにが起きたの!?
「リィル! 動かないで!」
「う、うんっ」
すぐさま護衛たちが白いマントを翻し、私たちを厳重に取り囲むように動いた。私とお兄さまを中心にして、背中合わせの円形になる。
剣や銃を構える音が響く。平和な観光が、突然サバイバルになったみたい。
私はお兄さまの白いローブをぎゅっとつかんだ。それはもう、思いっきり。
危険の臭いがするときは、強い人の近くにいるのが一番!
緊張感のただよう空気の中、街の人々も不安そうに足を止めてあたりを見回している。
「な、なにか事件ですの?」
「その可能性が高い。護衛の一人を捜索に向かわせるよ」
お兄さまの厳しい眼差しが周囲を見渡す。
私も異変を探すため、前、後ろ、右、左を確認してみるけど、護衛たちが視界を遮っているからよく見えない。
ならば──と空を仰ぎ見ると、視界の端に影が映った。
丸い屋根の上に、だれかいる。
「お、お兄さまっ!」
慌ててお兄さまの服を引っ張り、真っすぐ屋根の上を指さす。
逆光で顔は見えないけれど、三つ離れた屋根の上に人がいる。そして、その手には、ギラリと光るナイフらしきものが握られていた。
次の瞬間、その人影は身を翻し、屋根の上をジャンプして飛び移るように渡ってきた。
こっちに来る!?
動きに迷いがない。さらに、手に持っていたナイフをこっちに向かって投げつけてきた。続けて三本。多い!
「きゃあああ!」
悲鳴がまた響き渡る。
街の人々がパニックにおちいり、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。我先にと駆けだし、前の人を押して、人混みをかき分ける。
お、落ち着いて!
とは思うものの、私だって逃げたい! だって、怖いんだもの!
ギラリと太陽で反射する鋭いナイフが、こっちに向かって放たれた!
「きゃあああ!」
またまた巨大な悲鳴が響く大パニックの場に、澄んだ男の人の声が響く。
「《ムサンシオ》」
聞きなれた声が空気を震わせた瞬間、水の粒子が一斉に集まってきて、透明なシールドを形成する。
放たれたナイフが水のシールドに衝突し、そのまま勢いを失って地面に落ちた。
「お兄さま!」
やった! さすがお兄さま!
なにも恐れることなんてない。こっちには、歴代の海の使族の中でも優秀と言われるお兄さまがいるもの!
お兄さまの後ろからふふんと屋根の上にいた人物を見る。
ちょうど太陽に雲がかかったおかげで、顔がハッキリと見えてきた。
男だ。
濃い緑の髪に、オレンジがかった瞳。お兄さまと同じくらいの歳に見える。黒いズボンに白いタンクトップ姿。重たげな装備はなにひとつない身軽な格好。
その姿が網膜に焼きつき、頭の奥をゆさぶる。
……あれ。
あの人、どこかで見たことがある気がする。
でも、どこで?


