私は今日、ついに大人の階段を上る。
「うわぁ……っ! ここが、地上!」
海と地上の中継地点である海の宮殿を出れば、パァッと目の前が白く染まり、一瞬だけ目がくらむ。
しばらくして視界が馴染むと、そこには温かで煌びやかな世界が広がっていた。
聞こえてくる楽しげな笑い声と、愉快な音楽。
建物の壁は磨き上げられた真珠のごとく白く光り、丸い屋根は海底名物マーメロンのように深い青色をしていた。
少し先の広場にある噴水では、大きな水柱のてっぺんで水の花が咲き、キラキラと光の雨を降らせている。
何度も何度も夢に見た地上だ。
魅惑の地上都市、アクアバース!
お兄さまたちから観光自慢話を聞いては、悔しさに枕を噛みちぎった日々。
まぁ、そのおかげで地上名物のお土産は増えたのだけれど。
ひとつひとつ増えていく摩訶不思議な道具を眺めては、いつも夢をふくらませていた。
地上にはどんなものがあるのだろう?
どんな美味しいものがあって、どんな綺麗なものがあるのだろう?
まだ見たことのない新種の石はどこにあるのだろう?
ワクワクを胸いっぱいに詰めこんで、大人になる日を指折り数えて待ち続けた。
そして、ようやく。
私は大人に片足を突っこんだ海の使族として、地上に行くことを許された!
私は大人になったんだ!
感動の海に包まれていると、一陣の風が吹きぬけた。
薄茶色の長い髪がぱたぱたはためき、顔にかかっている白いベールがぺらりとめくれそうになる。
その瞬間、半歩前にいたお兄さまがバンッとハエを叩くみたいにベールごと私の顔を押さえつけた。
……お兄さま、もう少し妹のかわいい顔を大切に扱ってくれませんか?
「うぅ、鼻が……」
不意打ちでぶっ叩かれた鼻を片手で押さえる。
「あぁ、ごめんごめん。リィルがぼーっとしてるから。ほら、ちゃんとベールを手で押さえて」
お兄さまは私の鼻をキュッキュッと摘んで元にもどす。
はたして本当にもどっただろうか……。家に帰ったら鏡でチェックしないと。鼻がぺちゃんこになっていたら大変だ。
お兄さまに慰謝料を請求しなきゃ。
「このベール、ペラペラしていますし、風が強すぎるから完全防御は無理だと思いますの」
頭からかぶせられている花嫁のベールのような薄い布。ミラーベール。
こちら側からは見えるけれど、反対側からは見えないという特別な布だ。
ちなみにお兄さまはつけていない。私だけがつけている。半人前の印らしい。
見習い初心者マークみたいなものだろうか。
「うーん。新しく改良してもらうか。頭巾みたいにするとか」
それはちょっとダサい気がするから嫌だなぁ。家に帰ったらお姉さまに相談しよう。
お兄さまがミラーベールをダサくしようとしているけど、どうしたらいいですかって。
心のなかのやることリストにメモをして、私はベールを軽く押さえながらチラリと街を見た。
お仕事が終わったらめいっぱい観光するって約束だから、今はガマン。
これから私とお兄さまは海の使族の公務に向かう。
海の使族の公務とは、私たちの持つ海の力を地上の人たちに分け与えること。
海の使族と地上の人たちとの大きな違いは、海を操る力を持つかどうか。
たったそれだけ。
でも、大陸が少なく、ほとんどが海であるこの世界──スカイリアでは特別だ。
海は、海の使族の縄張りとして認識されていて、渡るのに海の使族の許可がいるからだ。
そもそも、荒波に渦潮、海の生きものたちと、海には危険がいっぱい。
だから私たち海の使族は、地上の人たちの船に【海の加護】を授けている。
大海原を渡る船が、安全に旅できるようにと、願いをこめて海の使族の力を付与しているのだ。
周りに白い軍服を着た警護を侍らせて、進軍のごとくゾロゾロと歩いて港までやって来る。
すぐにこの街を取り仕切っている役人が駆け足できて、私たちの前に立った。
茶色地に金色ストライプの入ったスーツに身を包んだ壮年の男の人。髪もヒゲも白髪が混ざりはじめているが、なんだかダンディな風格がある。
年輪の刻まれたシワすらも威厳を感じさせる。
ぽっちゃりおなかをした私のお父上さまとは雲泥の差だ。
厳格そうな男の人の登場に私はゴクリと唾を飲んだ。
粗相をしないようにしないとっ。
海の使族は敬われていると教わったけれど、こんなに真面目を形にしたような人だもの。ミスひとつ許されないに決まっているっ。
役人は私とお兄さまをアンバーの瞳で確認すると、突如その場に這いつくばって頭を下げた。
「敬愛なる海の使族、クラッド家の皆様にごあいさつ申し上げますっ。この度はご足労いただき、まことに、まことにっ! ありがとうございます!」
私は背中を仰け反らせて慄いた。
いったいなぜ、なぜ地面に頭をこすりつける!?
イメージしていた厳かで神聖な雰囲気がガラガラと崩れ落ちた。
私は体をのけぞらしたまま、わずかに足を後ろに引いて距離を取る。
いきなり地べたに這いつくばる奇行に、特大警戒網を敷くことにしたのだ。
「今日から少しずつ妹が公務の見学をするから。ほら、リィル。あいさつを」
お兄さまは慣れているかのような輝かしい笑顔でそう言って、警戒丸出しの私の背中をトンっと押した。
まさか、これが普通なの……?
私はそっとお兄さまを見上げた。
にこやかな笑顔だった。
私はおそるおそる一歩前に足を踏み出し、ピンクのドレスワンピースの裾を摘んで広げ、軽くひざを曲げた。
「リ、リィル・クラッドです。先日十三歳になり、成人いたしました。今後は私も公務に参加いたしますのでよろしくお願いいたしますね」
「これはこれは、リィル様。まことにおめでとうございます。この街の管理をしておりますボウ・ラジリオと申します」
役人ことボウは這いつくばったまま顔を上げ、にこりと笑みを浮かべた。
「妹が遊びたいそうだから、さっそく船に案内してもらえるかな」
「もちろんです。それではこちらへ」
ボウは立ち上がり、腰を低くしたまま手のひらで港に停まっていた巨大な船を示す。
端から端までで豪邸が収まりそうな大きさだ。数百人は乗り込めるだろう、立派な船。
「わぁ、すごい」
首をそらしながら見上げて、感嘆の声がもれた。
夢のなかで空飛ぶ船は見たけれど、海に浮かぶ船を見るのははじめてだ。
「リィル、こっち」
手招きするお兄さまのあとを、金魚のフンのごとくついて行く。
お兄さまは船のちょうど真ん中あたりで足を止め、巨大な船の船体に向かって右手をかざした。
ドキドキしながら、一歩後ろからお兄さまの勇姿を見守る。
お兄さまが小さく呪文を唱えると、全身から神々しい水色の光が溢れ出す。
お兄さまの薄茶の髪がふわっと浮き上がった。
そして、船体に向けた右手のひらから青い光の粒が放たれる。
それはぱあッと強い光をまといながら船全体を覆っていき、やがて雨粒のようにキラキラと甲板へと降り注いだ。
「うわぁ、きれい」
海の加護だ。
海を操る海の使族の力がこめられているから、高波、渦潮、海の生き物たちに襲われるというトラブルが起きなくなる。
私も何度か練習したけれど、こんなに大きな船に加護を与えるのは難しい。
最低でも半年は効果が続くようにする必要があるからだ。
青い光の粒が降り注いだ巨大な船は、やがて光の塗装がされたみたいにほのかに青く色づいた。
そして一際強く光り輝くと、船の中心に立っていた一番大きな柱に、握りこぶし大の青い水晶玉が埋めこまれた。
それを確認したお兄さまが、ゆっくり右手を閉じる。神々しくお兄さまを包んでいた水色の光も止まる。
一瞬時が止まり、ぽぉっと魂が抜けたようにその光景を見ていた役人や船員たちから「わぁぁっ!」と歓声が上がる。
「おおおっ! すばらしい。ありがとうございます。これでしばらくは安全に海を渡ることができるはずです」
仰々しい礼にお兄さまはひとつうなずき返し、そしてくるりと私を振り返った。
「それじゃあリィル、街に行こうか」
待っていたその一言に、私はカッと目を見開いた。
すぐさまお兄さまの腕に跳びつく。
このために来たんだものっ。
今日は一日、たっぷりと楽しむんだから!
「はいっ! お兄さま、あっちに不思議なものがあったんですの! まずは大通り!」