男は右手に巻かれていた白い包帯を解き、手のひらをこちらに向けた。
その仕草を見た瞬間、背筋に悪寒が走った。なんだろう……どうしてこんなに、嫌な予感がするんだろう。心臓のバクバクが止まらない。
私は、どこかで、あれを……。
「オルキ様、お気をつけくださいっ!」
護衛のひとりが叫んだ。長剣を正面に構えたまま、お兄さまの前に立った、が。その瞬間、その護衛は突如気を失ったみたいに膝から崩れ落ち、その場で前のめりに倒れこんだ。星軍の純白のマントが虚しくなびく。
ゴンッと、額打った音がした。でも、痛がるそぶりもなく伏せっている。
「えっ」
……なにが起きたの?
攻撃された?
でも、なにも見えなかった。
そもそも、攻撃って?
……海の使族に向かって?
そんなことが、あり得るの?
お兄さまも目を見開いて一瞬固まっていたけれど、すぐに厳しい目を男に向ける。
「《ムサンシオ》」
お兄さまが低く呟くと、透明な水の壁が現れ、私たちを守るようにぐるっと周囲を取り囲んだ。
だけど、また別の護衛が倒れた。そしてまた一人、また一人。私たちの周りにいた護衛が次々に倒れていく。
防御が効いていない?
屋根の上にいる男の舌打ちが聞こえた。反射的にビクリと肩が跳ねる。
だって、私は生まれてから、こんなにハッキリとした敵意を向けられたことがない。
……いや、よく考えたらあった。
でも、アレとはちょっと違うというか……。
知りもしない人からの憎悪は、はじめてだ。だから戸惑う。私がなにをしたのかもわからないし、なにに腹を立てているのかもわからないから。
「せっかくターゲットに遭遇したってのに、数が多いと厄介だな」
男の唇が歪む。鋭く冷たい眼差しが、私たちを射ぬいた。
お兄さまが舌打ちをし、人差し指を上に向け、そのまま軽く回す。
その瞬間、青い光をともなって上空に現れた大量の水の槍。そのひとつひとつが硬度を持ち、太陽の光を受けて鋭く輝く。
「行け」
お兄さまが手を真横に振り払うと、水の槍が一斉に男に向かって飛ぶ。
屋根をえぐる勢いで槍が突き刺さったけれど、男は軽々とステップを踏んでお兄さまの攻撃をかわした。
男の手のひらが、またこちらに向く。
やや上を向いた角度のため、太陽の光がその手のひらの中心を輝かせた。
キラリと光る、見覚えがあるもの。
私はそれを凝視した。
そんなはずがない。
だって、あり得ない。
あれは、夢だもの。
頭の中で、現実と夢が交錯する。
男の手のひらの中心には、黄色く細長い石が埋めこまれていた。
私は、それを、見たことがあった。夢の中で。
黄色い石が、ほのかに光った。
「リィル!」
放心したままそれを見ていると、突然お兄さまの大きな体が私をぎゅっと抱きしめた。全身で私を隠すみたいに包みこむ。
「……っ」
耳元でお兄さまの小さなうめき声が聞こえた。そのすぐあと、大きな体から力がぬけ、私の体にのしかかってくる。
そのまま私を押しつぶすように倒れこんできたから、一緒になって地面にひっくり返った。
「お、重い……っ! お兄さま! 大丈夫ですの? なにが……」
「ふんっ、デカいほうを仕留められたか」
風にのって冷たい声が届く。
その言葉に、背筋が凍った。
デカいほうって、まさか、お兄さまのこと?
仕留めたって……?
「あそこだ! 海の使族の護衛を! 犯人は取り逃がすな!」
増援が来たのか、白い軍服が街路を駆けてくる。お兄さまと戦っていた男は一瞬そちらに視線をやり、舌打ちをすると屋根を飛ぶように渡って逃げていく。
私は震える手でお兄さまの体をゆさぶった。
「お、お兄さま? お兄さま!」
いつもの綺麗な横顔。
でも、いつもと違うのは、目を開けてくれないこと。
お兄さまの下からなんとか這い出て、周囲を見る。てっきりケガをしているのかと思ったけれど、血は見当たらない。
嫌な予感が、ぶわっと押し寄せる。
胃がキリキリと痛んだ。呼吸が苦しい。
そんなはずない。あるはずがない。
だって、あれは夢。
ただの、夢なのに……。
頭の中で、夢で見た断片的な映像がフラッシュバックする。
手のひらに、黄色い石を持つ、『石持ち』の男。その男は、対象を眠らせることができた。
ただの眠りではない。
永遠に目覚めることのない、深い深い、眠り。
違うよね?
そんなはずない。夢だもの。ただの、夢。
「お兄さまっ、起きてください! 街中で寝るなんて……っ」
夢だって、そう思っているのに、目の裏が熱くなって、視界がにじんでくる。
目の前が、歪んでよく見えない。
「リィル様……」
肩にそっと、手がおかれた。
白い軍服。新しく来た援軍だ。白ひげの生えた屈強な老兵が、お兄さまのそばに跪いて、脈や呼吸を確認する。
私は両手を組んで祈った。
なんともありませんように。
ただ、気絶しているだけだって。
すぐに目を覚ますって、そう言ってくれないと。
老兵がゆっくりとふり返る。
眉が下がり、やるせない表情。
白いマントが、悲しそうに風になびいていた。
「一度もどりましょう、海底に」
「……」
唇が震えた。
うつむいて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。堪えきれなかった涙がポタリと地面に落ちた。
今日は、観光で、楽しい日になるはずだったのに。
生まれてはじめての地上。
何度も憧れて、ずっと楽しみにしていたのに。
どうして?
あのとき、お兄さまは私をかばった。
私がぼーっとしていたから。だからお兄さまが代わりに……。
「ぅ……おにいさま……」
お兄さまの体をそっと抱きかかえた星軍の老兵と一緒に、私は海の中、アクアドリームへと帰った。