「おい、リリア」
呼びかけられたリリアはびくりと体を震わせた。
「言いてェことはたくさんあるが、そのナイフ……どうするつもりだ?」
「あ……」
「な、なんだ。おまえらは。おいっ、リリア・エスカーナ! 早くしろ! こいつが死んでもいいのか!」
シルカの首に剣がくい込んだ。
リリアのナイフを握る手に力がこもる。
「死ぬつもりか?」
背後から響く、感情のない平坦な声に、リリアの心臓は縮み上がった。
あんなに覚悟を決めたはずなのに、声を聞いただけで揺らぎそうになっている。
リリアの小さく育っていた欲望が、トントンと心の奥をノックしてくるのだ。
「本当に、それでいいのか」
リリアは答えられなかった。
「おまえは本当に、自分の命に興味がないんだな」
以前言われたのと、同じ言葉が投げかけられた。
「自分だったら傷ついてもいい。自分なら死んでもいいってか? 命の重さを決められるなんて、大層な身分だなァ? リリア」
リリアはぎゅっと、くちびるを噛み締めた。
「もっとがむしゃらにもがいてもがいて、生きたいって、そう思わねえのか」
「だって、そうしたら……」
誰かを傷つけてしまう。
リリアが言おうとした言葉を、怒号が引き裂いた。
「おいっ、あの男を撃て!」
リリアはハッとして振り返る。
「チッ。うぜェな」
苛立ったように舌打ちしたグレイが、手に持っていた小型のナイフで軽々と銃弾を弾き返していた。
「おい。シーカー。あいつら邪魔だから取り押さえとけ」
「はいはい。余計な手を出すと殺されそうなんすけどね。今も目ギラギラしてるじゃないっすか。おーこわ」
リリアはポカンと口をあけて、人の所業とは思えない一連の動きを見ていた。
リリアの視線に気づいたグレイが、ため息をつきながらリリアに合わせるようにしゃがみこむ。
「言っただろ。俺は、おまえが死んだら困る」
「……」
「そのナイフを捨てろ。おまえの意思でだ」
無骨な手が、リリアの頬を優しくなでた。
「リリア」
リリアの心が震える。
「これっぽっちも生きたいと思わなかったのか? おまえは、どうしたいんだ。リリア」
興奮した手負いの獣をなだめるような、うんと甘い声が、リリアの鼓膜をくすぐる。
「わ、私は……」
リリアの思い描く未来に、リリアはいなかったのかもしれない。
リリアが聖女になったときから、シルカとは一緒にいられなくなった。
聖女リリアと呼ばれ、たくさんの人が敬ってくれたけれど、リリアを見てくれる人はどこにもいなかった。
つまらない毎日。ただ同じことを繰り返す。
リリアが死ねば、新たな聖女は生まれる。
べつに、リリアである必要なんてないのだ。
リリアは、この世に未練がなにもなかった。
自分が犠牲になることで救われる人がいるのなら、それでよかった。
誰かを置いていくことは悲しかったけれど、生きたい理由にはならなかった。
それよりも、自分のせいで誰かが傷つくのを見るのが悲しかった。
けれども。
「リリア」と、そう優しく呼ぶ声が、耳の奥を震わせる。強く心を揺さぶって、リリアの眠っていた欲望を呼び覚ます。
「ぼす……」
もっと一緒にいたい。
もっと触れ合いたい。
もっともっと、知らない景色を見てみたい。
リリアの欲望が、たくさんの建前を押し退けてやってくる。
「……い、きたい」
「聞こえねェよ」
「ボスと、一緒に、生きたい……ッ」
リリアがそう口にすると、グレイは目尻を下げて笑う。
「ばァか」
グレイの手が、優しくリリアの頭を引き寄せた。コツンと、グレイの肩口にリリアの額がくっつく。
そうして、うんと甘い声が、リリアの耳元で響く。
「知ってる」
カランっと、リリアの手からナイフが滑り落ちた。
リリアの心に引っかかっていた何かが、バキンっと音を立てて崩れていく。
生きたいと、一緒に生きていきたいと、想いが溢れていく。
自分の手で誰かを護りたい、誰にも縛られない力が欲しいと、強く願った。
と同時に、カッと、リリアの体から光が放たれた。
力が湧き上がるような、不思議な感覚だった。
リリアは自然と左手を自分の首に付けられているチョーカーに伸ばし、自分も知らない言葉を口にする。
地面から、立ち上るように風が巻き起こりはじめた。
グレイが、見たことのある光景に目をすがめる。
「あの時と同じ──」
ひときわ風が大きくなると、リリアの下に巨大な魔法陣が展開される。
目も眩むような白があたりを覆い尽くしていた。
「リリア、意識はあるか」
「ん、は、い……ぼす」
舌っ足らずに言葉を返すリリアに触れるか迷う素振りを見せたが、グレイは片手でリリアを抱き込むように包む。
白い光はやがて七色の光の粒となって、花びらのようにひらひらと地上に舞い落ちてくる。
その光にふれると、負傷していた兵たちの怪我がみるみる治っていく。クヴィスリンの腹の傷も消えていた。そして、シルカの怪我も。
「な……っ。やっぱり、おまえは聖女だったのか……」
シーカーに押さえつけられていた王太子が、呆然としたように呟いた。
それに気づいたグレイが、リリアのコメカミに優しくくちびるを落とし、勝ち誇ったように笑う。
そして、音なく「返してもらう」と呟いた。
目を見開き、息を飲んだ王太子が、リリアに向かって叫ぶ。
「おいっ、リリア! リリア・エスカーナ! 今ならまだ、助けてやってもいい。こちらに来い!」
「ちょっとちょっと。そりゃ無理ってもんすよ。アレはもう、ウチのもんですから」
「なにをふざけたことを。えぇい、どけ! 私を誰だと思っている!」
地べたに這いつくばりながらジタバタともがく王太子の前に、シルカとクヴィスリンが立ちふさがった。
「ええ。本当に。王族が聖女を追放なんて、前代未聞ですよ。ねぇ? 宰相様」
「ああ。このことは公にしなければならない。まさか、王族が聖女を見誤り、死罪を言い渡すとは……。この国の王族も落ちぶれたものだ」
ゆったりと笑うその様は、悪魔の微笑みのようだった。
王太子は顔を引きつらせ、シルカとクヴィスリンを見上げる。
「リリアを追放したその時から、これまでのあなた方がしてきた行い、きっちり裏を取っていますからな。相応の報いは、当然、受けていただきますよ。王太子殿」
「やだ、宰相様。王太子だなんて。この男はもう、咎人ですよ」
「な、なにを。おい、誰かこいつらを拘束しろ! おい!」
怒鳴る王太子の横に、縄でぐるぐる巻きにされた騎士達が投げ捨てられる。
「残念ですが、王太子。あなたの味方は捕縛しました」
「なっ?!」
「では、行きましょうか」
晴れやかな顔でクヴィスリンはそう告げる。
クヴィスリンの兵に拘束された王太子は、ハッとした顔でシルカを見た。
「おまえ。まさか最初からこのつもりだったのか?! 私を騙し、国を乗っ取るつもりか!」
シルカは何も答えず、不敵に笑うと背を向けた。
「宰相様。私も仲間を集めてそちらに向かいます。お城で落ち合いましょう」
「ああ、わかった」
リリアはぼんやりとその光景を見ていたが、目の前がチカチカと揺れるような感覚にぎゅっと目をつぶった。
「大丈夫か?」
すぐにグレイの声がし、リリアは小さくうなずきながら薄目をあける。
「一気に力を使ったから目眩が起きてるんだろ。まだコントロールが上手くできねェみたいだな」
リリアはグレイの肩口に頭を寄せたまま浅く呼吸した。
「眠かったり、どこか不調だったりはしねえか?」
「少し、くらくらします。でも、大丈夫です」
「力を使ったのは覚えてるか?」
リリアはうなずいた。
「覚えてます、けど。何か、言葉を言った気がするんですが、それは覚えていません」
「ああ。確か、『ディエスノエリアーナ』って言ってたな」
「ボス、覚えてるんですか?」
「あの状況でなんか言ってたら覚えておくだろ」
リリアは感心しながらグレイを見上げる。
リリアとバチンっと視線があったグレイは、ふっと吐息を混ぜたように笑うと、存在を確かめるみたいに親指の腹でリリアの頰をなでる。
「まァ、なんにせよ。無事でよかった。リリア」
とろけそうな眼差しに、リリアはそわそわと視線をさまよわせる。
「あ……。助けに来てくださって、ありがとうございました」
「ったく。起きたらいねェし、なんの嫌がらせだよ」
「わ、わざとじゃないんですよ。その、お手洗いに行きたくなっちゃて。それにお水もほしかったし、その……ご、ごめんなさい」
必死に言い訳を並べたものの、危機管理が足りなかったのは事実なので、リリアはしおしおと謝罪を口にした。
「もう勝手な行動はすんな。おまえ、トラブルを引き起こす天才みてェだからな。ちょっとしたことでも報告しろ。寝てても起こせ。どこか行くな。いいな?」
間近ですごまれて、リリアは顔を強張らせながら身を引く。
「ボスー。それは束縛ってやつっすよ。そんなんじゃ嫌われますよ?」
カラカラと笑いながらリリアたちのもとへやって来た、シーカー。リリアはパッと表情を明るくする。
「シーカーさん。シーカーさんも、ありがとうございました」
「あーいいっすよ、そんなの。リリアサンがいなくなったと知って、血走った目で苛立ちを全開にするボスと四六時中一緒にいたことに比べれば」
「……悪かったな」
バツが悪そうに視線をそらすグレイに、シーカーがにたりと笑う。
「有給一週間」
「わかった。好きなとこ行って来い」
「やりっ。ちょっと気になるとこあったんすよねぇ」
パチンっと指を鳴らし、シーカーがガッツポーズする。
「リリア。てめェは戻ったら、ドブネズミみたいになっても生き延びる方法をたたきこんでやる」
「は、はいっ。頑張ります!」
「リリアは返してもらうわよ」
シルカが、堂々とリリアたちの間に割って入る。
バリッと音がしそうな勢いで、リリアをグレイから引き剥がした。グレイの眉が不満そうに上がる。
「王太子も王族も、今回の件で処罰される。聖女の力を権力者が独占してたのも、もう終わり。この国は生まれ変わるのよ」
「自ら捨てといて、今更戻って来いってのは、虫が良すぎるんじゃねェか?」
「捨てたんじゃないわ。預けただけ。そういう契約だったでしょう?」
「そうなの?」
「そうよ。とりあえず一年。そういう契約なの」
リリアは、前にグレイが「一年は面倒を見てやる」と言っていたのを思い出した。
グレイが難しい顔をしながらも黙っているのを見ると、本当のことなのだろう。
「だからリリアを返して──って言いいたいけれど、まぁ、今はいいわ」
「えっ。いいの?」
「これからまた国は荒れるだろうし、あんた、すぐ死んじゃうんだもの。この男のそばにいたほうが、安全な気がするわ」
シルカが肩をすくめる。
「国が荒れるって、何か起きるの?」
「革命よ。もともと、私はそのつもりで動いていたわ。まぁ、思わぬ手助けが入ったから、トントン拍子で進みそうだけど」
シルカはクヴィスリンのことを言っているのだろう。
グレイと一緒にいれるのは嬉しいが、自分の国が大変なときにリリアだけ他国にいていいものなのかと考える。
「あの、シルカ。私も何か手伝えること……」
「ない」
シルカは片手を前に突き出し、キッパリ拒絶する。
「だってあんた、どん臭いんだもの」
言葉のナイフがリリアの背中に突き刺さった。見えない血が噴き出す。
「まだ、どういう形になるか分からないし、聖女の立場もどうなるか分からないわ。変な風になって聖女を殺せってなっても困るもの」
「で、でも、大丈夫なの? シルカは」
「それなりに仲間もいるし、こっちにもウィング二人いるから大丈夫よ」
「あ……。クヴィスリン宰相様の遣いの人……」
あの人もいるなら大丈夫かもしれないと、リリアは納得する。
「それに、正直、あんたがいたほうが邪魔だわ。どん臭いくせにすぐ死ぬし、騙されやすいし、お人好しで寄り道ばかりするし」
「うっ。わ、わかった。じゃ、じゃあ、あの」
リリアはくるりと振り返ってグレイとシーカーを見ると、頭を下げる。
「なんでもするので、また、置いていただけますか?」
それを聞いたグレイがニヤリと笑った。
「リリアサン、今は前とは違うんですから、なんでもするってのは良くないんじゃないすかね」
「え?」
「いいぜ。まァ、元から手放す気なんざ、さらさらねェよ」
それを聞いたリリアは嬉しそうに笑みを零した。
「それじゃあ、私はもう行くわ」
「えっ。も、もう?」
「やることがいっぱいあるの。大丈夫。ちゃんと迎えに行くわ。それまでいい子にしてるのよ」
「う、うん」
「じゃあまたね、リリア!」
ふわりとリリアの髪をなでて、シルカは人とは思えない速さで駆けていった。
名残惜しい気持ちで小さくなる姿を見ていたリリアは、背後から肩をつかまれビクンと背筋を伸ばす。
「まるで、そのうちいなくなるみたいな会話だったなァ? リリア」
「ぼ、ボス……」
リリアは顔を青くしてグレイを振り仰いだ。
目を眇めていたグレイは、リリアと目があうと、眉を跳ね上げ、息を吐き出す。
「まァいい。てめェには教え込むことが山ほどある。帰るぞ、リリア」
リリアはパッと瞳を輝かせ、満面の笑みでうなずいた。
「はいっ」