「しびれ……」
「あ。わかってしまいます? でも変だな……全身の力が抜けると書いてあったのに。話せるんですか?」
メルティアの頭の中は混乱していた。
今までにも食べ物に何かを入れられていたことはあったが、全部未遂だった。
チーが教えてくれていたからだ。
もともと平和なこの国で事件が起きることのほうがめずらしい。
各街の警備は騎士団がしているが、あるのは喧嘩の仲裁ばかりだ。
人を殺すようなことも、何かを奪うようなことも、薬を盛るようなことも起こらない。
だからメルティアの周りで事件が続いたとき、人々はこう言ったのだ。
「メルティア様が悪いのでは」と。
はじめて手足がしびれる感覚。
視界が狭まって、音も遠くなる。
さいわい、飲んだ量が少なかったからか、かすかになら体を動かすことが出来そうだった。
メルティアは振るえる指先をなんとか動かす。
それを見たエルダーが跪いて、そっと、恭しくメルティアの手を取った。
「メルティア様。あなたが悪いのですよ」
「わ、たし……」
エルダーはうっとりと目を細めて、メルティアの指先にキスをした。
「お慕いしています、あなたを」
行動は狂気に満ちているが、その手つきは神聖なものに触れるかのように繊細だ。
殺すつもりではないらしい。
「メル、許可を出して」
チーの険しい声が聞こえ、メルティアは目だけでチーを見た。
「人を攻撃するにはメルの許可がいる。言って。あいつを攻撃していいって」
「な、に……」
人を攻撃するにはメルティアの許可がいる。
ただでさえ痺れて混乱しているのに、メルティアはさらに混乱した。
そんなメルティアにチーは大きく舌打ちをする。
そして、チーはふと顔を上げ、青い指先を花畑の中央に向けると、空間を引っかくように指を動かした。
すると、花畑の真ん中に小さなつむじ風が起きはじめ、それはだんだんと大きく空へと伸びていく。
「な、なんだ?!」
「ち、く……」
人を攻撃するつもりなのだろうか。
でも、それをしてはいけない気がした。
何か、とてもとても大切な約束があったような気がする。
「……あ、気づいたみたいだ」
チーが小さな声でつぶやいた。
ゴウゴウと渦を巻き始めていた風が、突然パッと消え去る。
「……なんだったんだ」
さりげなくメルティアをかばうように前にいたエルダーがほっと息を吐いた。
そして、後ろで動けずにいるメルティアを見て目を細める。
「おかわいそうに、こんなにおびえて」
「ゃ……」
また手を取られそうになって、メルティアは必死に抵抗する。
と言っても、動けないので、子ウサギがぷるぷると震えているようなか弱さだった。
「ふふ。可愛いですね、メルティア様」
エルダーがメルティアの髪にキスを落とす。
香りを嗅いで、何度も何度も髪にキスをする。
ぞわっと全身の毛が逆立つ感覚がした。
それが嫌悪感だと気づいて、メルティアは心の中で助けを呼ぶ。
ずっと、メルティアのそばにいてくれた人を。
メルティアをずっと護り続けてくれていたジークの名前を。
心の中で何度も呼んだ。
「メルティア様、この国を出ましょう? そうしたら、ずっと二人でいられる」
メルティアは言葉をなくして、ひゅっと息を吸い込んだ。
嫌だと示すために必死に手を動かす。
でもエルダーはうっとりと目を細めて、メルティアの手にまたキスをしようとした。
そんな狂った空気を切り裂くように、突然ひゅっとナイフが飛んできて、木に突き刺さる。
「メルティア様から離れろ」
動けない中、メルティアは何とか目玉を動かす。
少し息を乱しながらこちらを睨みつけるジークがいた。
「ジーク……上手く撒いたと思っていたのにどうしている?」
「……妖精が教えてくれました」
「は? 頭が狂っているのか?」
「それはおまえだろう」
ジークが剣を抜いた。
それを見たエルダーは倒れているメルティアをチラリと見る。
「いいのか? こっちにはメルティア様がいるんだぞ」
エルダーが強気にそう言った瞬間、大きく風が吹き、メルティアの体が空高く浮き上がる。
「は? 何が……」
メルティアを取り戻そうと、エルダーが空に手を伸ばす。
ジークは吹き抜ける風の中を一気に駆け抜け、素早くエルダーのみぞおちに剣の柄を叩き込んだ。
「うっ」
不意打ちに息を詰め、エルダーは膝をつく。すでに意識を手放しかけていたエルダーに、ジークは静かにささやいた。
「この世には、目には見えない不思議なことがあるんですよ」
気を失ったエルダーが地面に転がると、ジークは安堵の息をつき、空を見た。
ふわふわと空に浮いていたメルティアが、空から舞い降りる女神のように、そっとジークの手の中に落ちてくる。
「……遅れて申し訳ありません」
メルティアはかすかに首を振って、目だけで会話をする。
メルティアが動けないことに気づいたジークは険しい顔をして奥歯を噛んだ。
「すぐに城に戻ります。もう少しだけご辛抱を」
メルティアを抱えて城へと戻ろうとしたジークの目の前に、一本の花があらわれる。
薄紅色のティアナローズだ。
ジークは足を止めてメルティアとティアナローズを交互に見た。
「……飲ませろってことか?」
花を手にしてジークはメルティアを見る。
メルティアは動けない中で小さくうなずいた。
ジークはその場に腰を落として、メルティアを横抱きにしたままティアナローズの中心にある蜜袋を割った。
「メルティア様、飲めますか?」
蜜が地面に零れ落ちそうになって、ジークは慌てて蜜を指先につけるとメルティアの口元に運ぶ。
「口を開けてください」
メルティアはのろのろと口を開いた。
ジークの指先が口の中に入ってきて、口の中に甘い蜜の味が広がっていく。
舌に擦りつけるようにジークの指が動いて、メルティアの指先がピクリと反応する。
蜜を飲み込むのと同時に、体にあった痺れはだだんだんとおさまっていった。
「あ……」
「話せますか?」
「あ、ありがとう……ジーク……」
「ご無事でよかった……」
ジークがほっと目元をゆるめる。
そしてメルティアを一度地面におろすと、伸びているエルダーに近づき、持っていた縄でぐるぐる巻きにした。
その光景を、メルティアはぼんやりと見つめる。
何が悪かったのだろうか。
『あなたが悪い』
その言葉が、メルティアの耳にこびりついていた。
あまりにも純粋に、まっすぐに向けられた狂気に。
メルティアははじめて『人が怖い』と思ってしまったのだ。
「メルティア様」
ジークの呼びかけに、メルティアはハッと顔をあげる。
「あ、な、なに? えっと、ごめんね……ジークたちの言う通りだったね。その、助けてくれてありがとう」
メルティアは細かく震える手をきゅっと握り締める。さり気なく隠すように後ろにやった。
それをチラリと見たジークは、かすかに目を細めた。
「無理して気丈にふるまわなくてもいいのですよ」
「大丈夫だもん」
「メルティア様」
メルティアはうつむいて唇を噛む。
「怖かったとそう言っていいんです」
「大丈夫。来てくれてありがとう」
「……強情だな」
深くため息をついたジークが、一歩メルティアに近づいてくる。
「ジーク」
「……あなたに触れても?」
メルティアは固まった。
いつだって、ジークに触れてほしいと思っていた。
けれど、今はだめなのだ。
今ジークに触られたら、きっと、泣いてしまう。
「だ、だめ。ジークは、騎士でしょう? 騎士はそういうことしないもん」
ジークがしばらく沈黙して、でも目をそらさずにメルティアを見下ろす。
「……なら」
「……」
「ただのジークなら。あなたの幼なじみのジークとしてなら、いいのか」
メルティアの呼吸が止まった。
ジークがまた一歩、近づいてくる気配がする。
「ティア」
ジークの手が、そっと確かめるようにメルティアの頬に触れた。
同じ手なのに、ジークは全然違う。
あたたかくて、安心する。
必死に我慢していた涙腺が、堪えきれなくなって、メルティアの視界をぼやけさせていく。
「ぅ……じーく」
つぶいやいたのと同時に、涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、強く抱きしめられる。
丸ごと全部包み込むように、怖いものから隠すように、メルティアを抱きしめてくれる。
「こわかったな、ティア」
ふわりと大きな手で頭を撫でられて、メルティアの涙腺は決壊した。
ジークに顔を押し付けて、ボロボロと大粒の涙を流す。
「うっ、こわかっ……た」
「遅くなって悪かった」
メルティアはただ首を振った。
ジークの服をつかんで、嗚咽混じりに涙を流す。
「俺は、休みなんてなくてもかまわない」
「でもっ」
「俺があなたのそばにいる」
「……」
「だから、もういいだろ。あなたの騎士は一人で」
メルティアはしゃくりあげながら小さくうなずいた。
結局、メルティアの騎士はジーク一人に戻った。
あのあと、チーに記憶をあやふやにする香草を教わって、エルダーにはそれを嗅がせた。
だからか、エルダーはその日のことをあまり覚えてはいなかった。
そしてメルティアはその日あったことを父と母に話した。
メルティアの両親らしく、揉め事や争いになれていない二人はおろおろと狼狽し、混乱した。
そして、これまでメルティアのそばにいた人が引き離されたあと、憑き物が落ちたように元に戻っていたこともあって、ひとまず監視をつけて騎士団に送り返すことになった。
メルティアの両親はメルティアへの噂が立つことも恐れていたのだ。
そうして、メルティアびりびり事件は誰にも知られることなく、ひっそりと幕を下ろした。
突然クビになったエルダーは肩を落としてショックを受けていたが、やはり本当は剣が好きだったのか、あっさりと騎士団に戻っていった。
そしていつも通りの日常が戻ってきた、はずなのだが。
メルティアには嬉しいような困ったようなことが増えていた。
「メルティア様。起きていらっしゃいますか? ……メルティア様?」
遠くからジークの声が聞こえる。
「おいメル。ジーク呼んでるぜ」
「う……ん……ちーくん?」
「オイラじゃなくてジーク。あ、痺れ切らした」
「メルティア様! ……入りますよ」
ガチャリと慌ただしくメルティアの部屋の扉を開けたジークは、足早にメルティアの寝台へとやってくる。
そして、目ぼけて半目をしているメルティアを見て、ほっとしたように胸をなでおろす。
大慌てなのはメルティアだ。
「じ、ジーク!?」
「おはようございます、メルティア様」
「おはよう……もうそんな時間なの? ま、待って。すぐ準備するね」
あの事件以降、ジークがやけに心配性になった。
前々から口うるさいほうではあったが、それに拍車がかかっている。
なんなら、前よりも休みが減ったくらいだ。
メルティアもメルティアで、ジークを見ると抱きしめられた感覚を思い出してドキドキする。
大きな腕だったとか。手がごつごつしていたとか。いい匂いがしたような気がするとか。
昔のように、「ティア」と、そう呼ばれた気がするとか。
混乱状態だったため、半分は妄想かもしれないが。
「そういえば、落ち着いたら来てほしいと王から言付かっています」
「お父様から?」
「なんでも頼み事があるとか」
メルティアは小さく首をかしげる。
のほほんと平和を体現したような父からの頼み事はめずらしい。
どちらかというと、毎日庭いじりをするメルティアに、「無理してないかい? 倒れないようにね」と言ってくるくらいだ。
「何かあったのかな?」